第3話 あの日

——3年前。


 あの日も今日のように暑かった。

 シニアチームで迎えた最後の夏の大会、二回戦。相手は地区の強豪。点差はわずかに1点差で追いかける7回表。

 緊張感のある守備だった。


 カキンッと乾いた音が響いた。

 球は、ゴロで転がってきた。二遊間寄りの打球。

 咄嗟に一歩、逆シングルで差し込みながら捕る。足音が迫っていた。


(間に合う……!)


 一塁へ送球するか、迷いはなかった。

 けれどその瞬間——視界の端、走塁コースを外れて、膝を狙うように滑り込んできた影。


 ドン、と衝撃が走った。

 グチャッという、不快な音が耳をついた。


 右膝に鈍い痛みが走り、バランスを崩して地面に叩きつけられる。

 視界がぐるりと回り、砂埃が巻き上がる。


 思わず呻いた。

 激しい痛みに、視界が眩み、吐き気がする。


 声にならない声が喉の奥でくぐもる。

 土の匂いと、汗の匂い。そこに、鉄っぽい血の匂いが混じっていた。

 夏の匂いに嗅ぎなれない異物が紛れ込んでいた。


 彼は、地面に手をつきながら呆然と僕を見ていた。

 何かを言いたげな顔だった。でも、口は動かない。


「結月ッ!!」


「おい、ふざけんな! 何やってんだよアイツ!」


「てめぇ、わざとやったのか!?」


 怒鳴り声が飛んだ。ベンチから、内野から、あちこちから。

 誰かが足音を荒らげて駆け寄ってくる。


 周りの音が、耳の奥でくぐもって聞こえる。

 痛みと怒声と混乱の中で、僕は地面に倒れたまま、空を見上げた。


 ——夏の空は、あのときも今日の様に青かった気がする。


 診断は、前十字靭帯、内側側副靭帯、そして半月板の損傷だった。

 医者は静かに言った。——もう、元のようには走れないと。


 その日、僕の野球人生は終わった。


 泣いているチームメイトや監督が見舞いに来てくれた。

 でも、どこか心の奥でホッとしている自分もいた。


「お前、なんでここに……」


 絞り出したような声に、現実に引き戻された。

 視線の先では、あの高瀬が目線を逸らしながら立っていた。


 髪の毛が大分伸びている。


「転校だよ、これからよろしくな」


 僕の呼びかけに、高瀬は驚愕の表情を浮かべていた。

 床に転がったボールを拾うと高瀬に投げて渡す。


 ボールを受け取ると、高瀬は再び絞り出すように声を出した。


「……もう、やってねーから俺も」


「……え?」


 素直に聞き返す。


「野球……もう、やってねーから」


 しばらくの間、どちらからも言葉はなかった。

 目の前の彼は、あの日と同じように、何も言えずに立ち尽くしている。


 その沈黙を、僕はどこか懐かしいと思ってしまった。


「……俺、あの時、お前から野球を奪った」


 高瀬がぽつりと呟いた。


「本当に……ごめん」


 言い終えると、彼は視線を落としたまま、足元をじっと見つめていた。


 謝罪なんて、もうあの時に一生分受け取った。

 元々、僕は彼を恨んでなどいない。


 だから——


「……高瀬、あのとき、ありがとう」


 顔を上げた高瀬の目が、はっきりと揺れた。


「え?」


「俺さ、あの怪我で野球できなくなったとき、本当は……少し、ホッとしたんだ」


 言葉にした瞬間、胸の奥で冷たく固まっていた何かが、音を立てて溶けていく気がした。


「もう、頑張らなくていいって思えた。あの頃の俺は、自分で辞めることすらできなかったからさ。あれで、やっと終われた」


「でも、それは……」


「もちろん、少しは動揺したよ。でも、今は——少なくとも、あの怪我がなかったら、俺はここにいなかった。今の俺は、あの夏があったから生きてるんだよ」


 高瀬は、何も言えずに、ただじっと僕を見ていた。


「だから、もういいんだ。俺は、ちゃんと前に進めてるから」


 その言葉に、高瀬の肩から少しだけ力が抜けた。


「……お前、強ぇな」


 一瞬だけ、風が吹いた。


「ううん、たぶん、お互いさま」


 軽く笑うと、高瀬もほんの少しだけ、照れくさそうに笑った。

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