第35話 真相
ペンギンのぬいぐるみは優しく抱きしめられている。りさが、短く息を吐いた。
「だけど……みくちゃんが駄々をこねたりしたら、あの人の機嫌を損ねたりしたら、そのとばっちりは、決して我がままを言いだした本人にはいかず、絶対に私に来ました。殴る蹴るの暴行はあまり受けていたわけじゃありませんが。とにかく透明に、見えないものとして、扱われました。その日は、私の分はご飯もお風呂も外出も何もなし、みたいな感じです。それが、日常。九歳までの桜絵りさの、何の変哲もない日々でした」
ペンギンから決して手を離さずに、りさがこちらを向く。にこりとやわらかな笑みを携えて。オレの頭に一つの単語が浮かぶ。
子どもにご飯やお風呂を与えずに、学校にも行かせない場合もあるとニュースで見たことがある。一切家から出さずに、大人のストレスの捌け口として使われる子もいれば、りさのように、いないものとして扱われるケースもあるとは、聞く。そして、最悪の場合、死に至るとも――。
オレは、微笑み返すことは出来ずに、ぐっと眉間に力をこめる。りさの目が丸くなった。
「あの日……みくちゃんが亡くなった日のことは、聞かれましたか?」
オレは、強めに頭を振る。
「いや、実は『時間がないからこれをりっちゃんに伝えて』としか言われてなくて……なんのこっちゃ、と思ったけれど、オレもその、旗や泣き方で、もしかしてと思ってたから……」
りさが口元に手をあてて、吹き出した。
「ふふっ。それは何とも、あの子らしい慌ただしさですね」
そうして、ペンギンを布団の上に下ろす。オレは居住まいを正した。
「あの日……みくちゃんが、交通事故で亡くなったのは、公園の砂場に母のネックレスを取りに行ったからなのです。友だちに見せたかったらしく、無断で持ち出していたのですね。私、知らなくて……。だけど、もう遅かったから、じきにあの人が帰ってくるのは分かっていたので、必死に止めたのですよ。みくちゃんが家にいないなんてことがバレたら……何かあったら。もう、三日とか一週間などではなく……水も食料も一ヶ月はもらえずに、とうとう干からびて死んでしまうと思って。
ところがみくちゃんは『ネックレスがないってなったら、ばつを受けるのは、りっちゃんだよ? りっちゃんだって、そんなことになるといやでしょ?』と言ったのです。確かにそうだ。そうに違いないと思って、行かすも地獄、止めるも地獄だと観念した時、みくちゃんが言ったのです。『じゃあ、あたしが戻ってくるまで、あたしのふりをして。大丈夫。絶対に気づかれないから』と」
「……そうか。そんなことが……」
そう口にするので、精一杯だった。
りさが再び、ペンギンを手に取る。くまの時のように手を動かしながら、なおも話す。
「そこからは、ご存知の通りです。結局、あの子はネックレスを取りに公園に戻る途中で車に轢かれて、帰らぬ人となりました……。たぶん、ネックレスのことで頭がいっぱいで、信号なんて見ていなかったのでしょうね……。訃報を知って、これからは永遠にあの子を演じることを、決めました……。そうしたら、本当に誰も気づかなくて。いつの間にか私は、約束を果たすためではなくて、『私が最初からみくちゃんだったのかも』という気にすらなってきました」
りさがどんな気持ちでみくを演じていたのか――その考えに至ったのか――考えるだけで、胸が潰れそうになる。それに、いじめを受けていたことを知っていた事実が、あまりにも醜く弱い過去が突き刺さり、ただ唇を強く噛みしめることしか出来ない。
りさがペンギンを元の位置に片付ける。
「こんなにたくさんのぬいぐるみ……りさでは、もらえませんね」
寂しそうに呟いて。
「私……ようやく、太陽になれたのです。月にすらなれなかった、誰かの光で輝くことさえ許されなかったのに、太陽になれたのですよ。みんなに愛される、優しくてかわいくて甘え上手な……みくちゃんの席に今、私はいます。『もうあたしを演じなくていいよ』? 無理ですよ。私たちは、完璧に入れ替わったんです。もう、私が桜絵みくなんです。もう、お腹が空いて眠れない夜も、髪にとまった蝿を食べてしまおうかなと血迷うことも、誰かに『臭い』『あっち行け』『死ね』『消えろ』『殺す』って言われることも。もう何も心配することがないんですよ?! それなのに、今更りさに戻れだなんて……そんなの、愛しか知らない者の傲――」
気が付いたら、オレはりさを抱きしめていた。ぽてぽてと、やわらかな音を立てて、ぬいぐるみが床に散らばる。
「……」
りさは黙ってオレに抱きしめられている。ぬくもりがある。温かい。そっと肩に手を置きながら離れると、初恋の少女の左目がぴくぴくと痙攣しだす。そのまま、右目より少し遅れて、涙が伝い出す。オレの腕に、りさの涙が落ちる。
「ごめんな」
何年分の「ごめん」だろうか。ようやく口にできた三文字だった。りさの目が丸くなる。
「……どうして、きみが、謝るのですか?」
「知っていたんだ。お前がいじめられていること」
りさが体を固くしたのが分かった。嫌われても構わない。嘘を吐くことが、こんなに苦しいなんて――。
今更過ぎる。そんなことは分かっていた。それでもオレは口を塞がなかった。
「本当は、見ていたんだ。ずっと。六歳のある夏の日……お前がいつも本を読んでいた木の陰に隠れて……殴られているのを。罵られているのを。蹴られているのを。だけど、そこから出て行って、いじめていた奴らを、止めることは、とうとう出来なかった……。正直に言うと、怖かったんだ……」
「……」
「ずっと自分を誤魔化してきた。仕方なかったんだって。オレが出て行ったところで、きっと何も変わらなかった。だから仕方ない。オレはりさを見捨てたわけじゃないって。自分に言い聞かせてきた。だけど、忘れることなんて出来やしなかった。後悔していたから……。でも、でも今回……自分が言われのないことで矢面に立たされて、確信した。何もしないで見ている人間もまた、悪だってことを。だけど、本当は随分と昔に、自分がそうだったんだってことを……。ただ認めることが出来なくて、常に……それこそ、この六年間、見て見ないふりをしてきただけだって「違います!!」
凛とした響きだった。懐かしい――りさの、それ。
りさはオレの頬を両手で包み込むと、まっすぐにオレを見つめてきた。
突然すぎるその行動に、心臓はもうさすがに破裂しそうだし、目の表面なんかは渇いてきたような気がする。
「きみは、悪では……傍観者では、ありません!」
「え」
「今、自分で言ったじゃないですか。ずっと後悔していたって」
思っていた反応とあまりにも違ったので、面食らってしまう。もっと罵られるかと、軽蔑されるかと思っていた。
お前のせいだ、と。お前が弱かったからだ――と。幾度となくそんな夢を見た。夜中に咽び泣いて、許しを請うために都合の良い言葉を吐いたことも、あった。もういないきみに向かって。
なのに、現実は――オレは下唇を噛みしめる。
りさが口元を緩めた。
「分かっていました。私も。きっと、気づかれているって。知られているって。だけど、だけど隠していたのです……拙いながら……必死に」
「……」
「きみには、きみにだけは、心配かけたくなくて。きみの前でだけは、普通の女の子でいたかったから……だから、気づかないふりをしてくれて、変わらずに接してくれて、ありがとう」
「……そんな……そん、な」
ずっと、見ていたのに――ずっと好きだったのに――きみだけを目で追いかけていたのに――助けることも、支えることも、何ひとつ出来なかった。一体オレは、きみの何を見ていたのだろう――。
それなのにきみは「ありがとう」だなんて言う。
「知らなかったでしょうが……」
静かな声だった。瞳の奥が熱い。
「私にとって、桜絵りさにとってあなたの存在は……唯一の救いでした」
唯一の。その言葉が、心のやわらかな部分を掴んで離さなくなる。
「家に帰っても、公園に行っても、普通には扱ってもらえない。そんな私に、普通に声をかけ、普通に隣に座り、普通に一緒に本を読んだり、私の言葉に普通に笑ったり、驚いたり、怒ったりしてくれて……とりとめのない会話を交わしてくれたきみは……私の、たった一つの希望でした。光でした。あの時間が本当に好きで、大切で、支えでした……」
体が震えているのが分かった。不甲斐なさに――弱さに――愛しさに――頬を熱い一滴が伝い、落ちた。
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