2 悲劇


 日本帝國にある東都という街は、長きに渡る国内紛争の結果、勝利を納めた帝國軍側の本拠地である。王権制廃止に伴い首都として新たな機能を持ち始めたことから、帝都と呼び名を変えた。

 

 そのためこの街では、古くからの慣習と新しい技術が入り乱れた文化形成が始まっている。王が傀儡となった今、爵位を持つ華族どもは躍起になって、帝國軍の上官に取り入るための商談や縁談を進めているところだ。


 華族の中でも連綿と続く血統を誇る本堂家は、伯爵位というだけではない。と呼ばれる『人智を超えた能力を授かる家系』としても知られ、特に少し先の未来を占う『先読み』は随一の能力を誇っていた。

 帝國軍支配にあってもその類まれな能力を買われ、重要な家柄であるとの地位を保っている。


 現在本堂家には、ふたりの娘がいる。

 

 一人目は、姉の桜子さくらこ。十八歳。

 二人目は、妹の千代子ちよこ。十六歳。

 

 先読みの能力は、妹の千代子に宿っていた。判明したのは、千代子の十六の誕生日当日である。能力開花を確かめるべく行われた試験で、千代子は当主が「五分後に発表する姿が見えた」と、紙の隠し場所と内容を予言し見事に的中させた。

 

 本堂家は力の顕現に湧いたと同時に、桜子へ今まで以上に厳しく接するようになった。桜子の方は何度その試験を行なっても、当てることができなかったからである。


 無能。役立たず。不要。


 もはや、家人だけでなく使用人にまでそう蔑まれる始末。


 十六歳の試験に失敗した時から、桜子は離れの隅へと追いやられ、冬を越すにも難儀するぐらい、ろくな物も与えられず過ごしている。

 それでも桜子は、必死に耐えていた。家同士で決められた婚約者である、帝國軍少尉・風早かぜはや政親まさちかの元へ嫁げば、状況は上向きになるはずだと信じていたからだが――


「少尉との縁談は、千代子へ譲れ」

「そんなっ」


 久しぶりに呼ばれた母屋の広間で、当主から一方的に告げられた桜子は、絶望の余り正座から腰を浮かせた。

 取り乱す桜子の様子を、横目で冷ややかに眺めるのは、綺麗に正座した妹の千代子である。

 その千代子が、前を向いたまま声を張った。


「こおんな地味で、なあんの取り柄もない姉様をめとるなんて、嫌なんですって。当然よねえ」


 十六になれば、縁談を受けられる。


 本堂家には男児がいないから、入婿として迎えねばならない。後継となる政親の要望は、通す必要があるのは桜子も理解できる。

 黙って涙を飲むしかなかった。地味で細面の自分よりも、目が大きく唇もぽってりとした千代子の方が、普段から美人だともてはやされていたからだ。


 孤独に追いやられた桜子の、唯一の心のり所は――

琥珀こはく……お前は、側に居てね……」

 縁側に腰掛ける桜子の膝に鼻先を寄せる犬だけだ。

 

 茶褐色の短毛に虎模様の、精悍な中型犬である。名前は、目の色から取った。


 屋敷の離れは非常に古い建物で、すきま風は酷いし、屋根や柱は夜風でギシギシと音を立てるから眠れない。

 荒れ果てた庭に縁側があるのが、唯一の救いだった。そこに腰掛ければ、外出すらも外聞が悪いからと許されない桜子でも、季節の移ろいを感じることができるからだ。

 

 琥珀は毎日、どこからか庭に紛れ込んできては、桜子に寄り添う。琥珀が言うことを聞くのは桜子だけで、他の家人には全く馴れず、むしろ威嚇する。

 家に入ってくるなと無理やり引き摺られても、鋭い牙と獰猛どうもうさでもって自分の身を守ることのできる、賢い犬である。

 

 その琥珀は、三角の耳と太い巻尾をぴんと立てて、ふんふんと鼻息を鳴らしている。桜子の心の葛藤を読み取るような仕草に、桜子の目には我慢したはずの涙が、再びじわりと浮かんできた。


「わたくしが、役立たずだから……」


 異能どころか、秀でた見た目も愛嬌もない。特技もない。

 脳裏には、何度か会った婚約者である政親の、凛とした立ち姿が浮かんだ。軍服に軍帽を目深に被り、腰には帯剣しているという近寄りがたい雰囲気で、会話も二言、三言が精一杯であった。顔は朧げにしか思い出せない。いつも真一文字な口元だった、というのだけ覚えている。

 それでも桜子なりに『この方と添い遂げるのだ』と思っていたのだから、喪失感は計り知れない。


「悲しい。悲しくてたまらない。能力がないからって、なんでここまで」

 

 桜子には『無能』だけでなく、婚約破棄された伯爵令嬢という肩書きまで加わった。それはすなわち、縁談はなくなったということでもある。

 

 何度もつくろい当て布をした着物と袴、少しの食べ物と書籍が、全財産。使用人が嫌がりつつ持ってくる食事は日に日に目減りして、ついに庭に生えた草を選んで食べ飢えを凌ぐようになった。


 離れを掃除しに来る者などいないから、隅々まで自身で拭く。擦り切れた手指には、常に血が滲んでいる。

 掃除をしていれば、長い一日も気が紛れたのが幸いであった。夜は薄い布団に丸まるようにして、眠る。

 

(生きている意味など、ない)


 そうして過ごしていた、秋の終わりの、肌寒いある日。

 千代子と政親の祝言しゅうげんが、母屋で盛大に執り行われていた。桜子は出席を許されず、離れに居たままである。


 そこへ、政親の上官である中尉が、酔った勢いでやってきたかと思うと、桜子へ襲いかかった。


「おやめください!」

「良いではないか。どうせ嫁に行くあてなどないだろう」


 必死に抵抗する桜子だが、男の力、ましてや酔って理性のない状態ならば尚更、細腕での抵抗は無駄に終わる。


 ボロのような着物はあっという間にビリビリと引き裂かれた。

 

 酒臭い息を吹きかけられ、嫌悪感で吐きそうになりながらも、桜子は必死で逃げる。が、狭い離れでは少しの時間稼ぎにもならない。


「琥珀!」


 縁側の障子戸をなんとか開けた桜子は、庭にいる飼い犬に助けを求めた。

 

 名を呼ばれるや否や部屋の中へ飛び込んできた琥珀は、鋭い牙で中尉の左手首を襲う。


 だが、酔ってはいてもさすが軍人。

 噛まれた手首と自分の血を見てますます興奮したのか、帯剣していた軍刀を抜き、手首に噛み付かせたままの状態で琥珀を――串刺しにした。

 

 琥珀は、体の中心を刺されたまま足蹴にされ、乱暴に剣の身を引き抜かれ、大量に出血しながらも桜子の方へ首を向ける。濡れた瞳がまるでさよならを言っているかのようで、あまりの悲劇に桜子は卒倒しそうになったが、必死で正気を保つ。

 

 意を決した桜子は、絶命していく愛犬へ向かって

「一緒に、黄泉よみへ行こうね」

 と微笑んだかと思うと、中尉が抜き身で持っていた軍刀へ飛び込むようにして、自ら首の頸動脈を切った。


「ああっ!?」


 たちまちぶしゃあと弾ける、温かい血飛沫ちしぶき

 

 顔中に紅の液体をしとどに浴びてようやく、中尉は酔いから醒めた様子だ。琥珀の牙を手首から無理やり引き抜き、怪我の手当をしろと母屋へ向かって怒声を上げた。


 何事かと駆けつけた家人たちは、目の前の惨状に声を失った。

 

 祝言を血で汚すなど、あってはならないことだ。冷遇されていたとはいえ、伯爵令嬢を手にかけたことは、問題になるかと思われた。


 だが、やってきた桜子の父である本堂家当主へ向かって

「ふん! 無礼だから斬ったのだ!」

 と中尉はふんぞり返り、本堂家も帝國軍を敵に回すことを恐れ、その場で無罪放免に同意した。


(ああやっぱり私なんて……要らない人間……)


 仰向けで倒れていた桜子は、静かに命から手を離した。

 色を失った両眼が、天井を見ている。

 

(琥珀……ごめんね……せめて、一緒に逝こう)


 桜子の血液は、建物として二度と使えないほど、部屋の壁や床どころか天井に至るまで飛び散っていた。

 引き裂かれた血みどろの襟の間からは華奢な鎖骨が露わになっており、畳にできた血溜まりには、寄り添うように琥珀が事切れている――


    ꕤ︎︎


「ここは、どこだろう」


 桜子は琥珀とともに、太陽のない暗い夜空の下、見知らぬ河原を歩いていた。

 

 ざくざく。ざくざく。

 

 大きな砂利の中には、よく見ると髑髏されこうべの形をしているものがある。

 ぶつかりあって砕けて、小さくなったむくろを踏みしめながら、眼前に流れている大きな黒い川を目指して黙々と歩く。灯りはなくとも、紅色の雲が頭上にいくつもあるおかげで、数メートル先まではなんとか見通しがきいた。


『桜子は、戻れ』

「え?」


 付き添うように歩いていた琥珀が、突然


「琥珀⁉︎」


 飛び跳ねるぐらいに驚いた桜子は、かろうじて歩みを止めずに、琥珀の言葉に耳を傾ける。

 

わしの本当の名は、黒雷くろいかずちという。元は黄泉比良坂よもつひらさかの住人であるが、事情があって弱っていた。力を取り戻すため現世へ行ったのだが、そなたの手厚い介護で力を取り戻したのだよ』

「あの、あの……犬では、なかった?」


 自分でも馬鹿みたいな質問だと思ったが、桜子は尋ねずにいられなかった。


『桜子が見て犬ならば、犬だ』

「……犬に、見えます」

『ならば、それでよい。さて、儂が亡者もうじゃどもを引きつけるから、あちらへ走れ』


 琥珀の首は、川沿いを上る方角へ向けられている。


『遠回りだが、現世へ戻る道だ。川へ引きずり込もうとする奴らが厄介だが、なあに、儂がいれば』

「琥珀は、どうするの?」

『……』

「一緒じゃなきゃ、いやです」

『桜子。まだ戻れるのだ』

「いいえ。わたくしは、死んだのです。ここが黄泉ならば、ここにいます」

『儂を恩知らずにするな』


 琥珀が足を止め、目をきらりと光らせながら桜子を見上げた。桜子は、唇を引き結んだまま立ち止まっている。動きそうにないことを察した琥珀は、大きく息を吐いた。


『わかった。なんとか儂も現世へ戻ると約束しよう。だからどうか生きてくれ、優しい子よ』

「……絶対、約束よ? 破ったら」

『ああ。絶対だ。これは、恩返しだからな』

「恩だなんて。わたくしの孤独を支えてくれたのは、琥珀の方」


 困ったように笑う桜子の足首を、川から這い出してきた骨だらけの手が掴んだ。


「ひ!」

『さあ嗅ぎつけられたぞ。いますぐあの光の中へ走れ。振り向くな』

「わかったわ」


 普通の伯爵令嬢なら、不安定な地面を走ることなどできないだろう。が、桜子は幸か不幸か、毎日の拭き掃除で足腰が鍛えられていた。

 しっかりとした足取りで駆け出す背中は、細いながらも頼もしい。


「琥珀。また会おうね! よ!」

『うむ』


 わらわらと湧いて出てくる大量の骸骨たちが、桜子の背中を追いかける。だが、手の届く前に獰猛な犬が全てを噛み砕いた。

 

 桜子の視線の先に、真っ白な光の渦がじんわりと現れてくる。


 桜子は、走り続ける足を止めることなく、勢いのまま迷わず渦の中へと――飛び込んだ。

 

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