第二話 田中夏希の選択

母の記憶

 それは夏の終わりのことだった。

 

 通い始めた中学校からの帰り道。思春期の焦燥感、止まっていると吹き出しそうな欲とか想いとか。

 わけもなく走りたくて、バス道を自宅まで駆けた。足を止めると、この心臓も止まってしまうなんて妄想する。昔見た図鑑にそんな生き物がいたな、なんて思いながら。


 玄関の鍵を開ける。いつもなら、母はリビングでテレビを見ている時間帯だった。母の仕事を、私はよく知らない。けれど、毎日家にいる母と、何不自由ない暮らしは、ふとした時、間違い探しのイラストのように思えてしまう。

 

 その日は、静かだった。おかえりの声も聞こえない。

 

 すりガラスの扉の向こう側。上半身だけの影が見える。


 慌ててリビングの扉を開けた。寄りかかっていた体が、廊下に倒れてくる。長いブロンドの髪が床に広がり、その中心には、見たこともない母の顔があった。目は虚で、彫刻のように無機質。咄嗟とっさに呼びかけたが、反応はない。ただ唇が、何か言葉を紡ごうと、わずかに震えていた。


 その時の恐怖を、今もはっきりと覚えている。


 だけどその後の記憶は、曖昧だった。助けが来たのか、誰が呼んだのか、自分がどうしたのか——今となっては思い出せない。





 窓の外は暗い夜空。昨日からずっとそうだ。

 田中夏希は、ベッドの横の椅子に腰を下ろしていた。


 母は目を閉じている。呼吸は規則正しい。けれど、それだけだった。

 前の夏までは、目を開ける日もあった。ただ、意味のある言葉を交わしたのは、もう一年以上前のことだ。その時でさえも、母は私のことを娘とは認識していない。あの日からずっと。


 「ママ」


 声をかけても、返事はない。わかっているのに声をかけてしまうのは、誰のためだろうか。

 モニターの電子音だけが、静かに律動を刻んでいた。


 テーブルの上のタブレットを手に取る。

 

 署名欄のある文書が2つ。

 一方は「安楽死」という言葉が入った同意書。もう一方には、聞き慣れない制度名が書かれていた。それでも、それが何を意味しているかは、この世界の住人なら皆知っている。


 「いつでもいいですよ。今お支払いいただいている金額で、あと1週間はこの病室も使えます。決まったら、サインして送ってくださいね。」


 慣れた作り笑顔を浮かべた医者が、そう言っていたのを思い出す。


「......安楽死を選ばれる方はいますか?」


「...私は見たことがないですね。そちらの文書も、制度なので渡していますが、形骸化しています。カウンセラーが必要でしたら、ご連絡ください。」


 何故そんなことを聞くのかと、不思議そうな顔を浮かべたまま医師は退室した。それからどれくらいたっただろうか。窓から見える外の景色は、薄暗いまま変わっていない。


 タブレットを置いて、再び母を見る。元気だった頃の母は、世間と壁を作っているように見えた。だから、皆が望む旅立ちを、同じように望むのか、私には分からない。





 病院を出ると、人通りは少なくなっていた。結局私は決められなかったのだ。それが母が母でいられる時間を伸ばしてくれると、まだ信じているのかもしれない。


 体は重く、頭も痛い。けれど、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。


 病院の裏手の道を抜けると、小さな公園がある。

 特別な場所というわけではない。けれど、珍しく木々に囲まれていて、道路に面している割には静かな場所だった。

 無意識に、その方向へ足が向かっていた。


 公園のベンチに座る。真ん中に座ればいいのに、左側に。テレビのリモコンに近い右側は母の特等席だった。


 公園の入り口に制服姿。今日は珍しく居眠りしてた、男の子。

 あの転校生——佐藤湊だった。



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