扉を開く

 ——音が、低くうねっている。

 ひとつの意識は、その輪郭を再度自覚する。

 もうひとつは——


「......急性反応。発作性の...干渉......抑制値の減少を確認...」

「投与始めます。安定剤2ミリ。......よかった、現在の人格は......」

「まだ中止する段階ではない。...用量は上げるが、実地テストはこのまま......」


 瞼の裏に光がちらつく。


(……夢? いや……夢じゃない。ここは……)


 身体が動かない。目も開かない。けれど、声だけが響く。


「意識の滲出しんしゅつが想定より早い......やはり例の少女が転写元に影響を...?」


「特殊ケースの感応シナリオに近い反応ではあったが、その可能性は薄いだろう。情景想起......感情による刺激が主因......つまり、相手が誰でも起こり得たイベントということだ。」

 

「確かに抑制値の減少幅は僅かですが......

ああ、そうでした、少女に関しては、現場で記憶処理をしたと報告を受けております。」


 言葉の意味はよく分からない。分厚いガラス越しに声を聞いているような感覚。


「活動値が覚醒に近い、対処を。」


 誰かの手が額に触れた。次の瞬間、また深い沈黙に落ちていった。





 白く静かな空間だった。

 壁も、天井も、床も。遠近感を感じない。

 けれどそれ以上に、そこに並ぶ無数の扉が空間を異質にしている。左右に、上下に、斜めにすら。まるで立体迷路のように世界を埋め尽くす。


 ひとつ、手近な扉を開けた。

 覚えがある。自分の部屋だ。白く、無機質で、薄暗い。ベットの膨らみを作り出しているのは眠っている自分だろう。起きたら薬が届く頃だろうかと思案しながら、次の扉を開ける。


 ふたつ目の扉の向こうは、近所のバス停だった。車の通過音。塀に寄りかかる、制服姿の自分がいた。目線は下、持っている端末に向かっている。遠くの方に、こちらに近づくバスが小さく見えた。


 いくつも扉を開ける。教室、食堂、公園、そして、見たことがないはずの懐かしい景色⸻

 

 知らないはずのにぎやかな街並み。夕暮れの踏切。雨上がり、光が差し込む空。

 ひとつひとつに、何かが宿っている。懐かしさのような、苦しさのような⸻


 どれだけの時間が経っただろうか。いや、ここでは時間という概念が無いのかも知れない。これまで見てきた景色を、見た順番に並べることができないのだ。


 一際大きな扉が現れた。近くに、他の扉はない。それは、他のどれよりも静かに、しかし抗えない引力で目の前に現れた。

 重く、荘厳そうごんで、呼吸するように微かに脈打っている。


 指先を触れると、音もなく開いた。

 広がったのは、無機質な白⸻安らぎではなく、痛みと孤独の白だった。


 ⸻病室。カーテンは閉じられている。

 静かに、隔絶かくぜつされた空気。時計の音だけが、命の名残のように響いている。


 誰かが、そこにいた。

 細く呼吸し、静かに横たわっている。

 顔は見えない。でも、知っていた。ずっと知っていた。

 会いたかったとは違う、ただ、おかえりと言ってほしい気がした。


 名前を呼ぼうとした瞬間、世界がざらりと揺れる。


 放り出され、扉が、大きな音を立てて閉まり始める。まるで重力が反転するように、言葉も、視界も、奪われていく。


 バタン、と世界が途切れる。

 鍵がかかる音が、内側から響いた。

 拒絶にも、願いにも聞こえた気がした。


 遅かったのだ、何故だかそう思う。

 意識は強く、やさしく、世界から引き剥がされていく。


 無数の扉は遠ざかる。

 白い空間は、冷たい無音に溶けていく。

 記憶の匂いも、温度も、名前も、指先からこぼれていく。


 呼びかけられなかった名前さえも。





 目が覚めた。いつもの天井。薄暗い部屋。

 湊はゆっくりと体を起こした。のどが渇いている。


 洗面台に向かう。引き出しの中の薬箱。

 青いカプセルを取り出し、2つ口に含む。飲み込むのに少し苦労する。


 机の上のスケッチ帳が目に入る。

 白紙のページ。新品にしては、少し厚みが足りない気がする。


 湊は立ち上がり、制服に袖を通す。


 「……夢、見なかったな。」


 ぽつりとつぶやいた声は、目的地を持たない。



第一話 了


次回「田中夏希の選択」

物言わぬ母を前に、少女は決断を迫られる。

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