母の場所
「佐藤くん?」
彼だという確信はあったけれど、手綱は彼に握らせてあげようと思った。こんなところにいる時点で、1人になりたいに決まっているのだ。
彼はハッとしたあと、困ったような、微笑んでいるような表情を浮かべた。邪険にはされていないと思って、言葉を続ける。
「田中よ。田中夏希。よろしくね。」
「あぁごめん...田中さんか。まだ全員覚えられてなくて。」
「気にしなくていいよ。まだ1ヶ月でしょ、こっち来てから。しょうがない、しょうがない。」
ゆっくりとこちらに近づいてくる。そんなに緊張しなくても。クラスメイトなんだし。と思いつつ、その姿は普段から周りと距離を取る彼のイメージ通りだ。
パーソナルスペースが異様に広いな、というのが、私の彼に対する第一印象。だからこそ、今日は居眠りをする彼をみて驚いたことを思い出す。
ベンチの上の街灯の灯りに、彼も照らされる。酷い顔色をしていることに、今気づいた。
「佐藤くんも病院に行ってきたの?」
思わず聞いてしまう。
「いや、そうじゃないんだ。自分でもよくわからないけど、なんだか歩きたくて。」
「ふーん。なんかしんどそうだからそうなのかと思って......まあ、暇なら座りなよ。」
右は母の特等席。でも少しの間、忘れてみたかった。逃げていると言えばそうなのかもしれない。彼を言い訳にしたことで、母への罪悪感は少しばかり薄らぐ。
隣に座る彼は、思いの外大きかった。母のためのスペースを開けた気でいたから、少し距離が近い。
彼と初めて会った日の、他愛もない話をする。あの時は私と目を合わせてくれなかったから、名前を覚えてないのも納得。ぽつりぽつりと、言葉を落とすような声。今の私には何故だか心地よかった。途中、面白くもない冗談を言われたのは、彼のために秘密にしてあげようと思った。地球出身だなんて。
沈黙がしばらく続いた。
話すべきか。やめておくべきか。けれど、自分の中に沈殿したものが口を開かせた。彼に隣を許した時、もう決まっていたかのように。
「お母さんがね、入院してるの」
彼がこちらを見た。
視線が真っ直ぐで、拒絶の気配はなかった。
ただ、どこか苦しそうな目をしている。私や母への同情ではない。彼自身の中での出来事だ。
思わず目を背けてしまった。それでも、語り始めた口は、喉は、止まらない。
「さっきまで一緒にいたんだけど、ここ最近は意識も不安定で、私のこともよく分かってなかった。」
彼は黙っている。
「お父さんはもういないから、お母さんの家族は私だけ。お母さんをどうするか、私が決めなくちゃいけない。」
「どうするって......?」
掠れた声が聞こえた。その問いかけに、声が詰まる。察しが悪いのか、私の言葉を待っているのか。いずれにしても、私は私のすべきことを言葉にしなければならない。他でもない、私のために。
「署名。わたしがしなくちゃいけないの。」
タブレットの中の2つの文書。ただの文字。それなのに、私の母はもう帰ってこないという冷たい事実を、ナイフのように私に突きつける。
静寂。ポツリポツリと音がする。彼の声ではない。
遅れて、壊れたカセットテープのような声が聞こえた。
「署名...って.........な...んのしょ...めい...?」
流石に察しが悪すぎる。少し苛立ちながら彼をみた。
「え?それはもちろん安楽死と、地球の⸻
⸻
次の瞬間、彼の体が傾いた。
ゆっくりと倒れて、ベンチの端に肩がぶつかり、そのまま地面に崩れ落ちる。
「えっ、佐藤くん!? ちょっと……!」
慌てて肩を叩くが、反応がない。
口の端からは卵のような泡がでて、目は開いたまま、光を宿していない。
焦りの中で自分の端末を取り出し、救護要請をする。これでGPSデータが送られ、最寄りの医療班が通知されるはずだ。この都市に来て1ヶ月の彼は、バイタルを救護サービスに登録していない可能性があった。
私はただ呼びかけ続ける。返事を期待しての行動ではない。物言わぬ彼と母の姿が重なったのだ。いつかはこうなるのだろうかと恐れを感じ、叫ばずにはいられなかった。
「大丈夫だから!すぐ来るから!ねえ……佐藤くん...元に戻ってよ...!」
⸻
数分もせずに、無音のリンバスユニットが到着した。制服を着た男性たちが素早く彼の状態を確認し、静かに担架へと移す。
渡された端末に、彼のデータが表示されている。最下部の欄には、倒れる1時間前までの彼の経過が記録されていた。なんだ、登録してたのか。冷静になりながら、救助信号の発信者として、私は彼を移送する承認を押した。そういう決まりになっている。
担架が格納され、ドアが閉まる。
ユニットのライトが淡く点灯し、無音のまま闇夜に消えた。どこかで、病院まで続く地下道に入るのだろう。母が子どもの頃は、別の名前で音を立てて走っていたらしい。
ショックを和らげる。そう言われてもらったカプセルを口に入れる。舌で溶けるので水はいらない。
彼と一緒にいた私が、どうして何も聞かれなかったのか。制度通りなら、救護班と一緒にこの都市担当の秩序局員が来るはずだ。苦味と一緒に、その得体の知れない不安も、つばで飲み込んだ。
見上げた空は暗く、街灯以外の灯りはない。
ベンチの側で、1人立ち尽くす。
私は、彼の消えた闇が怖かったのだ。
それでも——
今すぐにでも、母の元へ行かなければ。
母が母であるうちに。
その望みを、繋いであげるために。
私は駆け出した。
その恐怖は、闇よりも大きかったからだ。
⸻
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