30話 手料理を君に
「ただいま……」
玄関を開けて、小声で呟く。時刻は二十二時を回っていた。女装に、メイド。慣れない練習は精神的にも、体力的にも限界だった。風呂に入って、さっさと寝よう。靴を脱いで、揃えると違和感があった。
「奈恋、まだ帰ってきてないのか……?」
レッスンは朝から夕方までのはずだ。初日からほぼずっと練習みたいな状態で、体力が持つわけない。多少無理を言ってでも、休ませるべき……なのに。風呂場での言葉を思い出してしまった。
「俺には、あの覚悟を止める権利はない……な」
ひとまず俺には俺のできることをやろう。片手に持ったレジ袋に目をやり、もう一踏ん張りだと気持ちを入れる。手を洗って、キッチンに立つ。家から持ってきたエプロンをつける。
「嫌いな食べ物あったらやばいな……せめて、少しでも美味しいと思ってくれたらいいけど」
包丁で玉ねぎに切り込みを入れ、みじん切りをする。鶏肉を一口台に切り落として、ゴマ油を敷いたフライパンで火を通す。お腹の減る香りがキッチンに充満する。
小学生の頃から料理は好きだった。それこそ奈恋が昔、家に遊びに来た時も手作り料理を一緒に食べた。フルーツナイフで、椅子に乗り、親に見守られながらの料理。奈恋はあまり量を食べなかったけど、美味しいと笑ってくれた。
「一人暮らしして、三年目か……」
一度、鶏肉を皿にあげる。玉ねぎをフライパンで炒めながら、レンジで米を温める。一人暮らしは長くなったが、いつもの静かなキッチンとはどこか違う感覚だ。
人のために料理を作るのは、滅多にないから緊張する。なんだかここ最近は緊張してばかりだな。なんて、思いながら手際よく料理を続ける。
飴色になった玉ねぎに、ご飯と鶏肉を加える。塩コショウを満遍なく振るって、ケチャップとバターをこれでもかと入れる。味付けが男メシすぎるかもしれないが、程よく調整するのも難しそうでいつも通りに進める。
そんな時、玄関が開く音がした。
「ただいま……ん〜いい匂い! と汗の嫌な匂い……」
「おかえり」
奈恋はやはり練習していたようで、汗だくのレッスン着だ。何度も転んだのか、体のいたるところにアザができている。その姿はアイドルには見えなかった。
奈恋は、そんな姿を隠すかのように、笑って話しかけてくる。
「あれやってよ。あれ」
「あれってなんだよ」
「ほら、よくドラマで見るやつ」
「……おかえりなさいませ、ご主人さまっ」
「な、なんで女の子視点? どっちにする、ってやつだよ」
完全にメイド喫茶の影響だ。恥ずかしくてオムライスに必要のない、タコを茹でてしまいそうだった。
「お風呂とお風呂、どっちにする?」
「それとも、わ・た・し? まで言ってよ。あとご飯だから。勝手に選択肢奪わないで」
「いいの? 風呂入らなくて」
「こんな美味しそうな匂いには勝てないよ〜。昼も食べてないし……あ、こんな嫌な匂いの横で食べたくないなら先に入るけど」
「嫌じゃない! 全然気にしないよ」
「よかった」
こんな否定の仕方をしたら、俺が汗の匂いを好きみたいに勘違いされそうだが、まぁいいか。
キッチンに戻って、炒めたケチャップライスを皿に盛り付ける。フライパンを軽く拭き取って、油を敷きなおす。卵を割ってかき混ぜる。
「奈恋は、オムライス甘いのとしょっぱめどっちが好き?」
「甘め!」
「ふふっ」
「あ、なんで笑うの? ガキっぽいとか?」
「いや、なんか小さい頃と変わってないなって」
「変わらないよ、何もね」
奈恋は微笑みながら、キッチンの横に立つ。
見られながら料理をするのも、緊張する。緊張って短期間でこんなに経験していいんだろうか。寿命が縮まりそうだ。
卵をフライパンに流し込み、かき混ぜる。固まりきらないように、余熱で火を通す。
ケチャップライスの上に、滑らすように乗せる。
「おぉ! すご〜い!」
奈恋はまるでマジックを見るかのように、手を叩いて笑っている。その瞬間だけは……彼女のように錯覚してしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます