弐:焔ノ酒、まだぬるい夢の中

「……で?」

 蘅音コウインは腕を組んだまま、目の前の中二鳥をじっと見つめた。

「で、あなたは何なの?焔を統べるとか、孤高とか、色々言ってたけど。つまりはここに住んでるってだけでしょ?」


 畢方ヒッポウはぎょっとした顔をした。

「む……お前、あの自己紹介を聞いてなお平伏さぬとは。近頃の人間は風情が足りんな!」


「いやいやいや!普通に怖いし意味わかんないし!ていうか、ただ追っかけてただけなんですけど!?」


 畢方ヒッポウはしばし沈黙し、次の瞬間、ぽん、と何かを蘅音の手のひらに乗せた。

「お詫びに……君も、ひとくち、どうだ?」


「は?」


 手の中には、焦げ目のついた小さな焼き芋があった。まだほんのり温かい。

「……なにこれ。っていうか、どこから出したのよ……」


「我が焔でじっくり炙った逸品だ。名付けて『黒焔いも』。」


「絶対いま考えたでしょその名前……」

 文句を言いながらも、蘅音コウインは小さく一口かじった。


「あっ……え、なにこれ……うま……」

 皮の香ばしさと、中からとろりと溢れる蜜のような甘さ。ほんの少しだけ焦げの苦みもあって、それがまた香りを引き立てる。

「……なんでこんなに甘いの!?ここ、炭の森だよね!?」


「ふふ……焔を統べる鳥に、不可能はないのだよ!」

「……いや、言い方……!」


 焼き芋をもう一口食べて、蘅音コウインは小さく息をついた。

「……でも、ありがとう。ちゃんと、おいしかった!」

 そして、ぽつりとつぶやく。

「店で出せるかも、って思ったくらいにはな!」


 風が、すこしだけ通った。

 焦げた木の匂いのなかに、甘い芋の香りが混ざっていた。


 蘅音コウインは、小さな声で言った。

「……ねえ。あなた、本当に、火事を起こしたこと、あるの?」


 畢方ヒッポウは、羽を動かすのをやめた。

「火は、選ばれた者にしか従わぬ。」


「……その『選ばれた者』じゃなかったとき、どうなったの?」


「どうなったか……」

 畢方ヒッポウは、ぽつりとつぶやいたあと、焔の奥を見つめるようにして語りはじめた。


「昔、人間の町で……婚礼の灯として、呼ばれたことがある。

 祝いの席、夜の帳、たくさんの人が集まっていた。

 俺は、ただそこにいた。祝福の象徴として。


 ……だけど、火が出た。大きく、赤く、突然に。

 幕が燃え、新婦の髪に火の粉がかかりかけて、誰かが叫んだ。

 笑っていた顔が、一瞬で泣き顔になった。」


 蘅音コウインは黙って聞いていた。


 畢方ヒッポウは目を伏せて、言葉を落とす。


「俺は、その火が、どこから来たかを見た。

 でも……誰にも、何も言わなかった。

 気づけば、『あの鳥がいたからだ』って言われていた。


 だから俺は叫んだよ、『俺がやった!俺が火を放った!』ってな。

 それ以来、俺は『災いの鳥』になった!」


 ——それは、炎の鳥が、自らを焼くような叫びだった。


 蘅音コウインは、ぎゅっと手のひらを握った。


 畢方ヒッポウは小さく笑った。


「……まあ、俺はただ、照らしたかったんだ。

 あのとき、笑ってくれたその顔を、もう少しだけ!」


 蘅音コウインは、しゃがみこんで彼の前に座り、そっと芋の皮を指でなぞった。

「……ねえ、さっきの焼き芋、ほんとにおいしかったよ。ほくほくしてて、ちょっと甘くて、なんか、安心する味だった」

 彼女はそう言って、そっと笑った。

「だから今度は、私の番。——一杯だけ、私の酒を飲んでみない?」


「礼」とか「救う」とか、そんな大げさな言葉じゃない。ただ、火の鳥がくれたあたたかさに、自分なりのお酒で返したくなっただけだった。


 畢方ヒッポウは顔を上げ、ほんの一瞬だけ驚いたような顔をした。けれどすぐに、鼻で笑う。

「……はっ、冗談だろう。火の鳥に、人間のぬるい酒を?ありがたいこったな!」


「ぬるい……!?まだ造ってもいないのに!」

 蘅音コウインがむっと顔をしかめ、膨れっ面で睨み返す。


 畢方ヒッポウは片翼をくいっと揺らし、つまらなそうに空を見た。

「それに、おまえ、酒なんて造れるような顔してないだろ。どうせ、見よう見まねの小娘じゃないのか?」


「やってみなきゃわかんないでしょ!」

 蘅音コウインはぴしゃりと返す。

「それに、見た目で決めつけないでよ……あんただって、それで人間に勝手に怖がられたんでしょ?」


 畢方ヒッポウは、わずかに目を瞬く。蘅音コウインは芋をもう一度胸の前に掲げた。

「あんたの火、ぜんぜん怖くないよ。焼き芋だってそう——焦げてるけど、甘くて、あったかくて、涙が出そうになるくらいよ。」


 そして、にこっと笑ってさらりと続けた。

「だから、私はそれに似た酒を造ってみたいと思った。『焰ノ酒』って名前も、もう決めちゃった!」


「……ふん!」

 畢方ヒッポウは鼻を鳴らす。

「人の味を真似て、火のことがわかるつもりか!」


「まねじゃないよ!」

 蘅音はきっぱりと言い切った。

畢方ヒッポウが教えてくれた味を畢方ヒッポウに返す!」


 彼女は焔に向かって、そっと手のひらを差し出した。火が一瞬揺れて、ふわりと熱が走る。

 風が通り抜ける。火の粉が、ぱちり、と宙に舞った。


 畢方ヒッポウはしばらく無言でそれを見ていたが、ぽつりとつぶやく。

「……変なやつだな。おまえ。」


「知ってる!」

 蘅音コウインは得意げに胸を張った。


 酒館・蘅


「ただいま、カン!」


 戸を開けた蘅音の声に、奥からくぐもった返事が飛んできた。

「ずいぶん遅かったな……またどこかの妖怪に絡まれてたんじゃないか?」


「えっ、なんで分かったの!?」

「だってお前、『妖怪ホイホイ体質』だろ。ほら、自覚ないだろうけど、変わり者ってのは妖怪にすぐバレるからな!」


「むぅ……ちょっとそれ、ひどくない?」


 そう言いつつも、蘅音コウインはくすりと笑い、囲炉裏の前にちょこんと座る。小さな鉄鍋に水を張って、ぽとんと芋を放り込んだ。


 薪に火をくべながら、ぽつりとつぶやく。

「……なんかね、あの森を出てから、ずーっと焦げた匂いがする気がするんだよね。焚き火でもあったのかな……いや、まさかね。」


 鼻をひくひくとさせながら、首をかしげる。


 その様子を、屋根の上からじっと見つめる影があった。

 畢方ヒッポウだった。


「……こいつ、マジで煮てやがる!」

 月の光に照らされた瞳が、じっと鍋の中をにらんでいる。


 しばらくして、蘅音コウインが鍋の蓋をそっと開け、湯気の向こうをのぞきこんだ。

「わっ、ちょっと焦げてる!? ……まあ、いっか。焦げるくらいが、甘くなるって言うし。」


 その一言に、畢方ヒッポウは顔をしかめた。

「……まさか、あいつ、焦げた芋で酒造る気か?」


 ぼやくようにため息をつき、羽をばさりと揺らす。

「本気で俺にそんなもん飲ませるつもりかよ!」


 その夜、蘅音コウインは久々にぐっすりと眠っていた。


 夢の中——彼女は囲炉裏の前で、畢方ヒッポウと並んで腰かけていた。

 小さな盃に注がれた酒。ふわりと漂う、焦げた芋の香り。

 ほんのり甘くて、少しだけ煙たい。


「……ふーん、意外といけるじゃねえか。焦げてんのに、甘いなんてよ!」

 畢方ヒッポウが不満げな顔で酒を啜りながら、ぼそりとこぼす。

 それに彼女も、くすりと笑って返す。


 このまま、朝まで穏やかに——そう思っていた。


 だが、ふとした瞬間、風が吹いた。

 鼻をついたのは、もっと鋭く、刺すような焦げた匂いだった。

 焚き火の匂いよりも強く、煙のように重たい。


「……ん?なんか……変だな。」

 夢の中で、蘅音コウインは辺りを見回した。

 囲炉裏の奥、畳の向こう、障子の隙間。どこからともなく、赤い光が漏れてくる。


 次第に、熱風のようなものが頬を撫で、空気がぴりぴりと乾いていく。

 薪がはぜるような音。木が崩れるような音。


「……火?」


 そう呟いた瞬間、心臓が跳ねた。

 夢の中の畢方ヒッポウが、すっと立ち上がる。だがその顔は、何も語らなかった。

 蘅音コウインは、その沈黙の中に、何かを悟る。


 ——これは、夢じゃない。


 息が詰まるような熱気に、彼女は跳ね起きた。

 囲炉裏の火はもう消えている。だが、部屋の空気が赤く染まっていた。

 鼻をつく、強烈な焦げの匂い。耳の奥に響く、ぱちぱちという爆ぜる音。

 まるで夢の中の続きをなぞるように、現実がゆがんでいく。


「まさか……火事!?」


 彼女は襖を開け、戸口から飛び出した。

 目の前の空が、赤く染まっていた。

 少し離れた場所——わずか数軒先の家屋が、炎に包まれている。

 屋根が崩れ、柱が燃え、火の粉が夜気を巻き込みながら空へと舞い上がってゆく。

 炎の輪郭が、まるで生き物のように脈打っていた。


 その焼けた梁の向こう、誰かの影が一瞬、揺れた。

 蘅音コウインは目を見開いた。

「——あそこに、誰かいる!」


 火の粉が舞うなか、彼女は息を呑んで、そして叫んだ。

「……畢方ヒッポウ!」


 空を裂いて

 火は翔ける

 朱の羽根を広げて

 帰る場所を探すかのように


 温めたかったのか

 燃やしたかったのか

 焰は語らず ただ 風に歌う


 妖の火は 咆哮する

 けれど 決して 触れぬ

 爪も牙も 恐ろしい姿も

 その本質は 恐怖の嘘かも知れぬ


 人の火は 染み込む

 音もなく 形もなく

 それでいて

 心の奥を 黒く 焦がしてゆく


 誰が火を恐れる?

 誰が火を抱く?

 その手に宿したものが

 温もりか あるいは終わりか


 空を舞う鳥よ

 おまえの火が 迷いを照らすように

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