参:焔に問ふ、妖に問ふ、人に問ふ

 燃えていた。夜を裂くような、悲鳴のような火だった。家が、屋根が、柱が、紅蓮の中で崩れてゆく。

 空までもが炎に染まっていた。まるで、誰かが天に向かって叫びを叩きつけたかのように——そんな色をしていた。


「……あれは——妖怪だ!」誰かが叫んだ。


 その視線の先、燃えさかる炎のなかに、確かに「それ」はいた。青い羽根に朱の焰がちらついている。火の海のただなか、微動だにせず立ち尽くすその姿。青の深みの中に、わずかな赤が浮かんでいた。


 畢方ヒッポウだった。


 その双眸は、遠く、誰の声も届かぬ場所を見つめていた。だが、ほんの一瞬だけ——彼は振り返り、こちらを見た。


 その瞳の奥に、確かにあった。悲しみが。


 次の瞬間、翼がひらかれる。ひとひらの星屑のように、彼は焰のなかへと翔けた。


「見たんだ、あの鳥がいた!」

「やっぱり妖怪の仕業だ!」

「火を放ったのはあいつだ!」

 焦げた煙の中、怒号が折り重なって夜空に響く。炎に照らされた人々の顔は、恐怖と怒りに染まっていた。誰かが地面に倒れ込み、焼けた土に手をついたまま叫ぶ。

「妖怪が……妖怪が、俺たちの町を燃やしたんだ!!」


 そのときだった。蘅音コウインの足が、ぴたりと止まった。

 違う。誰も見ていない。証拠なんて、どこにもない。けれど、彼女にははっきりとわかっていた。あの火は、畢方のものじゃない。


 胸の奥が、確信とともに震えていた。

「……うるさいっ!!」

 怒鳴った声が、自分でも驚くほどはっきりと響いた。怒りと熱と、もっと深い何かが、その声に宿っていた。

「誰が見たっていうのよ!?あの妖が火をつけたって、どの目で見たのよ!!」


 罵声とすすけた空気のなか、蘅音コウインは叫び続けた。

「勝手に決めつけないで!——あの妖は、そんなこと、しない!!」


 もしかしたら、ただの思い込みかもしれない。けれど、それでも——信じたい。あの芋のぬくもりを、あの焰の静けさを、あの時の「やさしさ」を。


 焦げた風が吹くなか、彼女は迷わず走り出した。家の前の井戸まで一気に駆け込み、桶に水を汲むと、自分の頭からざぶりとかぶった。裾も袖も、髪も全身びしょ濡れのまま、そのまま火の方へ駆け戻る。


「何してんだ、おまえ!」

 闇のなか、尾の影がひゅっと伸びた。カンだった。素早く尾を絡め取り、彼女の身体をぐっと引き寄せる。


「放して、行かないと!」


 もがく蘅音コウインに、彼は低い声で言った。

「バカか、おまえ。あれだけの火だぞ、妖怪ですら焼け死ぬ。人間が入ったら、骨も残らねえ!」


 その声には苛立ちも焦りもあったが、それ以上に強いものがあった——恐れ。彼は本気で、彼女の命を案じていた。


 だがそのとき、瓦礫の奥から、大きな音とともに何かが転がり出た。


「——!あれ……!」


 焰のなか、畢方ヒッポウの姿があった。黒煙の中から現れた彼は、煤にまみれながらもなお、しっかりと立っていた。肩には煤をかぶった人間をひとり、腕にはもう一人を抱え、そのくちばしで別の男の襟元をくわえて引きずっている。


 その必死な姿に、蘅音コウインの息が詰まる。


 ――違う。彼は、火を放ったんじゃない。あの炎の中で、命を、ひとつずつ拾っていたんだ。


「……あんた、やっぱり……!」


 蘅音コウインは叫びながら、カンの尾を振りほどいた。そして畢方ヒッポウの元へ駆け出す。崩れかけた柱の下から引きずり出された人に駆け寄り、必死に抱きかかえる。


「大丈夫!こっちは私が!」


 畢方ヒッポウは、一瞬こちらを見た。何か言いたげな顔だったが、すぐに視線を逸らし、再び炎の中へ向き直る。


 その姿に、ざわめきが広がった。


「まだ行くつもりか……?」

「もしかして、本当に——」

「いや、でも……」

「じゃあ、なんで……」


 疑念と困惑が交錯し、口々に言葉が漏れたが、誰ひとりとして動こうとはしなかった。畢方ヒッポウの足元を揺らす火の粉の中、ただ声だけが宙をさまよっていた。


 ——だが、誰も手を伸ばそうとしなかった。


 その沈黙を破ったのは、カンだった。

 彼は長い尾をふわりと揺らし、ため息交じりにぽつりと呟いた。


「まったく……人間ってやつは。」


 そう言って、燃えた家屋の端に歩み寄ると、倒れていた人物の肩を尾で巻き、ひょいと持ち上げる。

 炎の中で妖が人を救う光景に、人々は息を呑んだまま、ただ立ち尽くしていた。

 

 本来あってはならぬ静けさを引き裂くように、蘅音が声を張り上げた。

「なにボーッとしてんのよ、あんたたち!!——水を持ってきて!!」


 その声に、ようやく誰かが動き出した。バケツを持つ手。水を汲みに走る足音。混乱の中に、かすかに秩序が戻っていく。


 ——轟、と音を立てて、梁が崩れた。

 煙は空を覆い、赤い火の柱が夜を裂く。


「……遅くなったな。」

 低く、しかし澄んだ声とともに、楚湛言ソタンゲンが現れた。

 その掌から水が生まれ、袖が翻るたびに風が起こる。

 風が煙を裂き、水が火を削る。

 けれど——

「ダメだ……火が、消えない……」

 彼の額には汗が浮かび、その目に、焦りの色が滲んでいた。

 すでに彼も気づいていた。この火を完全に止めるには、もはや彼の術では届かないことを。そして、畢方が選んだ道に、自分は追いつけないのだということも。


 家屋の奥から、畢方ヒッポウが現れた。

 煤けた羽を広げ、一人、また一人と救い出しながら、沈黙のまま立ち尽くしていた。


 そして——ふと、振り返る。


 その視線の先には、蘅音コウインがいた。

 濡れ髪のまま、火の粉を浴びながらも彼を見つめていた。


 畢方ヒッポウは、微かに笑った。

 それは、別れのようでもあり、感謝のようでもあった。


 次の瞬間——彼は再び火の中へと翔けた。


 「……っ、待って!!」

 蘅音コウインが叫んだ。だが、その声は届かない。


 火が、唸る。

 空が、震える。


 そして——


 爆ぜた。


 夜が一瞬、昼のように明るくなり、

 火柱が天へと突き刺さる。

 地鳴りのような音が広がり、人々の声がかき消された。


 ……


 火が鎮まったときには、すでに空が白み始めていた。

 焦げた臭いがまだ空気に残っている。通りはすっかり焼け落ち、瓦礫と炭が地面を覆っていた。人々は口を閉ざしたまま、黙々と崩れた家の残骸を掘り起こしていた。瓦が転がり、木片が砕ける音だけが、時折、朝の静けさを破った。


「……こっちだ!誰かいる!」

 一人が声を上げる。何人かが駆け寄ると、焼け焦げた地面に、それは横たわっていた。

 ——大きな鳥だった。翼は半ば焼け落ちていたが、その姿は見間違えるはずもない。

 畢方ヒッポウだった。


 その身体の下から、小さな泣き声が聞こえてきた。


「……赤ん坊?」

 蘅音コウインが膝をつき、翼の下に手を差し入れる。煤だらけの小さな身体が、かすかに動いた。腕に抱えあげた瞬間、赤子はわんわんと泣き出した。

 その胸元には、畢方ヒッポウの羽がかすかに触れていた。まるで、最後の力で包み込んでいたかのように。


 蘅音コウインはもう一度、彼の顔を見た。目は閉じていた。もう動かない。

「……ほんと、ばか。」

 かすれる声でそう呟いて、彼女は赤子を片腕に抱き、もう片方で畢方の焦げた身体をそっと引き寄せた。


 涙が止まらなかった。


 蘅音コウインの腕の中で、畢方ヒッポウは微かに身じろぎした。焼け焦げた羽が、わずかに動く。


「……残念だな。」

 かすれるような声だった。音ではなく、風の中に溶けそうなほどのささやき。

「結局、一口も飲めなかったな……君の酒。」


 その瞬間、彼女は立ち上がっていた。

 赤子を人に預けると、夢中で駆けた。焼け残った家へ、がれきを跳び越え、煙の中をすり抜けるようにして、酒の道具を探した。崩れた瓦を素手でどかしたとき、指先に鋭い痛みが走る。血が滲んだが、気にしている暇はなかった。


 ——時間なんてない。けれど、どうしても、一杯だけでも。


 割れて崩れた瓦の間に、残っていた透明な液体があった。水かもしれないし、酒だったのかもしれない。だが、そんなことを考える余裕は、もうなかった。


 蘅音コウインはそれを手近な器にそっと注ぎ、黒く炭のように焦げた焼き芋を指で潰して、液体に混ぜ込んだ。火も、時間も、道具も、すべてが足りなかった。でも、それでも——これしかなかった。

 味なんて、どうでもよかった。ただ、彼のために、どうしても「一杯」を作りたかった。混ざりあったその液体は、かすかに琥珀色に揺れていた。

 

 彼女はそれを抱えて戻り、そっと畢方ヒッポウのくちばしに近づける。

「……ねえ、畢方ヒッポウ。まだ、間に合うかな。」


 畢方ヒッポウは、わずかに目を開けた。その瞳はもう、淡く濁っていたが、彼女の姿だけは、ちゃんと映っていた。

「……ふ、ふふ。ほんとに、持ってきたのかよ……」


 蘅音コウインが口元に盃を添えると、彼はゆっくりと、ひとくちだけ飲み込んだ。

 しばらく黙っていたが、次の瞬間、かすかに、くちばしの端がゆるんだ。


「……人間のくせに、うまいじゃないか。」


 それが、最後の言葉だった。


 畢方ヒッポウの体が、すうっと光を帯びていく。焦げた羽根の先から、透き通るような青がにじみ、欠片となって空へ舞ってゆく。

 夜明けの空に、ひとつ、またひとつ、星が灯る。


 焰、妖に燃ゆるも、人に宿す。

 妖とは誰ぞ、人とは誰ぞ。

 然らば、いずれか焔に焼かれ尽くすや。


 ーーーーーーーー

 イラスト更新:

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622177793508848

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