畢ノ巻:一足赤鳥、嘘ヲ本気デ語ル

壱:焦げた森に、荒誕降り立つ

 空は、ひさしぶりに雲ひとつなかった。

 雨のやんだ西山の町には、陽の光が瓦屋根の先まで染みわたり、石畳に射す光がきらきらと反射していた。

 空気の中には、発酵中の酒粕サケカスと山の花々の匂いがふわりと混ざっている。甘くて、どこか酸っぱくて、でも胸の奥がすうっとほどけていくような——まるで「これから、いいことが起きるよ」と耳元で囁かれているような香りだった。


「はぁ~~、これよ、これ!」

 蘅音コウインは、晴れ上がった空を見上げて、ひとり満足げにうなずいた。衣の袖をきゅっとまくり上げて、小屋の入口に吊るした木札をじっと見つめる。

 ——「酒館・蘅」、本日開業。


「看板って、こんなにキラキラしてたっけ……」

 屋根は少し歪んでるし、柱もところどころ焦げた跡がある。それでも、あの嵐の夜に比べたら夢のようだった。


 全部、あのふたり——御妖師ギョヨウシ楚湛言ソタンゲンと、三つ尾のカン——が直してくれたおかげ。壺を抱えて湖の向こうへ去った少年を思い出し、蘅音は楽しく胸に手を当てる。

「……なんか、彼が旅立ってから、いいことばっか起きてる気がするんだけど!」


 たとえば——

「こないだ、あの服の代金を払ってくれたお兄さん、また来たんですよ!」


 カンは柱の上でくるりとしっぽを巻きながら、気だるげに応じる。

「へぇ……」


「『雨のときは金なかったけど、今は心に余裕ができた』って言って、前より多く包んでくれたの!」

「……それ、いわゆる『気持ち程度』ってやつじゃ——」


「気持ちでも金は金!ありがたくいただきましたとも!」

 蘅音は小さな木箱を取り出し、笑いながら、小さな銅銭をぽとんと落とす。

「さぁて、きのうの『お志』は……この子に入れてあげましょうかね!」


 いまやこの「酒館・蘅」では、ふたつの酒を売っている。

 ひとつは、七日で仕上げる「早釀ソウジョウ」用のもの。花や果実を贅沢に使って、短期間でも香り豊かに仕上がる、いわばこの店の「目玉商品」だった。

 ——お客は、人間。

 西山の町で暮らす人々や、旅の行商人たちが立ち寄って、少し飲んで、ほろりと笑ってくれれば、それでいい。

「まずはこれで生活費を稼いで、ね……」


 もうひとつは、もっと時間がかかる酒——「ネガイサケ」と、彼女が密かに呼んでいるものだった。


 この酒は、最初は何も封じ込むことはない。

 ——ただの底酒として、時間をかけて発酵させる。


 そして毎回、その時々の妖怪の物語や願いを少しずつ加えていく。

 そのたびに、酒は新たな香りや味を宿し、唯一無二のものへと変わっていく。


 この酒は、ゆっくりと時間をかけて育てられる。

 それが、願ノ酒の作り方だ。


「本当は、こっちに全力を注ぎたいんだけどなぁ……」

 甕の口にそっと手を置いて、蘅音コウインはつぶやく。


 でも、夢は焦らず育てるもの。そう言ってくれたのも、あの妖だった。

 だからまずは、現実的に、早釀ソウジョウで店を回して。余裕ができたら、ゆっくりでいい——誰かの記憶や願いを、一本の酒に仕立てていく。それが、彼女の目指す「本当の仕事」だった。


 ひと息ついて、彼女はまた空を見上げる。

「……これから、いいこと、もっといっぱい起きますように!」

 ぱちん、と気合いを入れて手を打ち、蘅音コウインは甕の前にしゃがみ込んだ。


 まるでそこに、まだ見ぬ誰かが笑ってくれる顔が、もう見えているかのように。

 ——これから、百の酒と、百の物語が、生まれていく。


「さて、今日のおつまみは……っと。」


 ぽこぽこ、と小鍋の中で葛羹クズカンが踊っていた。

 蜜で煮た山百合ヤマユリの花びら、香ばしい焦がし酒粕、そしてほんのり塩気のある干し貝や乾燥した山菜のチップス——

 清酒に合うようにと、蘅音コウインが試作した「百花ヒャッカ葛羹クズカン」だった。


「よし、完成っ。……さあて、まずは味見を——」


 ぱくっ。


 ——何かが、なくなっていた。


「……え?」


 スプーンの中、まるっと一口分。

 さっきまで確かにあった、トロトロの羹が、きれいさっぱり消えている。


「……ねえ、カン。食べた?」

「食べてない。食べるならもっと豪快にいく。」


「え?紫色のネズミ?……あれはネズミじゃないの!?今、地面に紫色の……あ、あれが!」

 蘅音コウインは目を大きく見開き、恐怖に満ちて、床を指差しながら叫んだ。


「え?どこどこ!?」

 カンは、慌てて床に目を向けた。

「いや、違う。あれはヨウだな。たぶん——紫の翼の小獣、鴕鼠ダチュウだ。」


鴕鼠ダチュウ?」

「そう、あいつは食べものを見つけると、とりあえず一口かじる。飛ばない鳥のくせに、逃げ足だけはやたら速い。」


 その瞬間、炊事小屋の窓の向こうを——ぴょこん、と何かが跳ねた。

 つややかな紫の毛並みに、くるんと巻いた尻尾。背中には、薄紫の羽飾りがやけに立派についている。


「——いたっ!」

 蘅音は勢いよく立ち上がり、近くにあった大きな木製のしゃもじを手に取った。

「泥棒妖怪、待てぇぇえっ!!」


 跳ねる鴕鼠ダチュウ、追いかける少女。

 湯気と花香の漂う厨房から、二人(?)は全速力で森へと駆け出していった。


「おーい、深入りするなよー」とカンの声が背後で響くが、届かない。


 蘅音コウインは、木のしゃもじを片手に、全速力で森を駆け抜けていた。


「こらっ、逃げるな!その食材、返しなさーーいっ!」


 目の前をピョンピョン跳ねるのは、ずんぐりした鴕鼠ダチュウっぽい何か。ご丁寧に振り返って舌まで出してくる始末だ。


「あんた、絶対わざとでしょ!!」


 そのうち、木々の様子が変わってきた。黒く焦げた幹、炭のような土、空気にはツンと焦げ臭が混じっている。


「……ここ、なんかヤバい?」


 立ち止まった蘅音コウインの前に、空中から羽が一枚、ひらりと舞い降りた。青と赤と翠が交じり合い、まるで七色に輝く宝石のようだ。

 見上げると、光を浴びたその羽根は、ふわふわと空に溶けていくように揺れていた。


 そして——


「……あれ、足、一本?」

 目の前に降り立ったのは、青い羽根に赤い模様、頭には火のような飾り羽、白く光る嘴、そして、どう見ても一本だけの足。

「……ど、どこからどう見てもファンタジー鳥じゃん!?」


「その通りッ!!」

 鳥(?)はガバッと翼を広げ、ぎらりと目を光らせた。

「我こそは——ホノオを統べし孤高の炎鳥、畢方ヒッポウなりっ!!」


「えっ何?急に自己紹介!?というか名前叫んだ!?あと、なんでちょっとカッコつけてるの!?」


 蘅音コウインがツッコミを入れる間もなく、畢方ヒッポウは片足でぐるっと回って、羽をバサバサ鳴らした。

「ふふ……焼けた木々、焦げた風。そう、この森は我が居城。そして今宵、君は運命の来訪者!」


「え、なに?ナレーション入った?ていうか私、ヒロイン役なのこれ?」


 畢方ヒッポウはさらに語る。

「人は我を『災いの鳥』と呼ぶ……だが違う!違うのだ!!」


 ばさっ!


「火事を起こしたこと?あるっちゃある!けど!それはっ!風と湿度とタイミングの問題であってっ!!」


「全然言い訳になってないし!」


 畢方ヒッポウは突然しょんぼりして言った。

「……ああ、だから誰も来ないんだ。せっかく焼き芋とか焼きバナナとか、差し入れ用意してたのに……」


「なんでそんなキャンプ飯みたいなラインナップなのよ!?いや、ちょっと気になるけど!」


 ——そう、この焼け焦げた森は、意外にも寂しがり屋の中二鳥・畢方ヒッポウの秘密基地だった。


 ーーーーーーーーーー

 ①鴕鼠ダチュウ——小さな「美味しさ案内役」

山海経センガイキョウ:棠喬之山,有獸焉,其狀鼠身而紫翼,名曰鴕鼠。其性孱弱,遇敵以翼掩首。見則其地多有羹食。(棠喬トウキョウの山に獣あり。其の状、鼠の身にして紫の翼あり。名を鴕鼠ダチュウと曰う。性、孱弱にして、敵に遇えば翼を以て首を掩う。之を見れば、その地に羹食こうしょく多し。)」

 語訳:

 棠喬山に棲むという、不思議な小獣。体はネズミに似ており、紫色の羽を持つ。名は「鴕鼠ダチュウ」。気弱な性格で、敵に遭遇すると、すぐに翼で顔を隠してしまうほどのびびり。

 だがこの獣が姿を見せた場所には、なぜかいつも美味しい料理がある——

 まるで「ごちそうの予兆」を運ぶ、食の使いのような存在。


 ②畢方ヒッポウ——火を纏いし、孤高の霊鳥

山海経センガイキョウ:章莪之山,有鳥焉,其狀如鶴,一足,赤文青質而白喙,名曰畢方,其鳴自叫也,見則其邑有訛火。(章莪ショウガの山に鳥あり。其の状、鶴に似て、一足にして、赤文青質、白喙なり。名を畢方ヒッポウと曰う。其の鳴き声、自らの名を呼ぶがごとし。之を見れば、其の邑に讹火がかあり。)」

 語訳:

 章莪山に現れる、鶴に似た神秘の霊鳥。その姿は青き羽に赤い文様、白きくちばし、そして脚は一本きり。名は「畢方ヒッポウ」。

 鳴き声は、自らの名を呼ぶかのように響くという。

 その姿を見た村では、しばしば「訛火(正体不明の怪火)」が発生すると伝えられ、しばしば「災いの鳥」として恐れられた。

 ——だが、その正体は、ただの孤独な火の精霊だったのかもしれない。


 イラストはこちらです:

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622177663873573





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