ブロックされたユーチューバー
平日の夕刻。大阪・梅田駅前のロータリーは、疲弊したサラリーマンと、焦燥感を纏った学生たちが渦巻く、巨大な情報の濁流だった。その人並みの隅、待ち合わせに使われる古びた柱の陰に、コンビ『タウンダウン』の二人は立っていた。
漫才はすでに始まっていた。周囲の喧騒――車のクラクションの甲高い音、自動アナウンスの無機質な声――が、彼らの会話を飲み込もうとする。
ボケ役の松本が、目を細め、どこか遠い宇宙を見つめるようなトーンで切り出した。 「な、浜田。最近のSNSの誹謗中傷、あれ、やる奴の心理って、結局**『メンタル豆腐』**なんちゃうかな」
ツッコミ役の浜田は、すでに怒りのボルテージが上昇していた。首筋には青筋が走り、その声は駅前の騒音に負けじと、乾いた大声で響く。
「メンタル豆腐って…!アホか!人のアカウントに『死ね』とか送っといて、優しさとか語るな!ただの卑怯者やろが!」
「いや、ちゃうねん。あの人ら、攻撃する前に、自分のアカウントを先にブロックしてるって結論に達したんや」
通りすがりの数人が、その異常な会話に足を止めた。彼らの目は、まるで水面に油が浮いたときのような、違和感を映していた。
「はぁ?何言うてんねんお前!ブロックしたら送れへんやろが!」
「送れるねん。なぜなら、彼らにとってブロックは防具やねん。**言い返される恐怖、その『熱』**から自分を守ってるねん」
「ブロックは防具ちゃう、逃げ道や! 逃げてから殴るチキン野郎の話を、哲学にするな!」
浜田の怒鳴り声が、コンクリートの壁に反射して響く。最初の観客から、堰を切ったようにクスクスとした笑いが漏れた。
松本は、その笑いに満足げに頷き、そして突然、静寂を纏った。
松本は、SNS炎上ネタの不条理な地獄絵図を締めくくった直後、まるで頭の中で急行列車が急停車したかのように、冷静なトーンに切り替えた。
「それでお前知ってるか?YouTube」
浜田は、口を開けたまま硬直した。あまりに唐突で、あまりに無関係な話題の切り替えに、怒りのエネルギーが空回りするのを感じた。
「え?あ、ああ。(フッ)」 怒鳴る代わりに、笑いを堪えた短い返事が漏れた。
(さっきのSNSの地獄、全部リセットかよw。何やねんその、脳内CMみたいな切り替え!こいつの頭の配線、どこまで切れてんねん)
内心で毒づきながら、浜田のツッコミの構えは、すでに怒りから好奇心へと傾き始めていた。
「YouTubeのショート動画や。バズるにはな、『情報処理落ち動画』が必要やねん。画面に三つの窓。左にはお前の卒アル、右には意味不明なドラマ。そして真ん中でお前の相方が、ただひたすら頭を掻く」 松本は、数秒間、ゆっくりと頭を掻いてみせる。
周囲の円が、急速に広がり始めた。立ち止まった人々の視線が、まるで磁石に引き寄せられるように二人に集中する。雑踏の中に、彼らの奇妙な空間が形成されていく。
「なんなんその動画!**目と耳が喧嘩するわ!**どの情報に集中したらええねん!」浜田は、笑いをこらえきれず、肩が震えた。
「それでええねん。脳がバグったところで、俺が頭掻いてるのが、妙に真実味を帯びる。混乱したままリピートする、これや!」
(こいつ大丈夫か?w どこまでエスカレートするか見てやるわw)
浜田は怒鳴るのをやめ、両手を腰に当てた。彼はもう、ツッコミではなく、最高に興奮した観客になっていた。
「ほおほお。それで?w」
浜田の煽りを受け、松本はさらに加速した。
「それでな、そのバズりすぎたショート動画のコメント欄が、全部、『未来の俺』からの警告で埋め尽くされるねん」
「未来!?」
「そう!**『この動画を消せ!3日後に冷蔵庫が爆発するぞ!』とか、『このまま続けたらお前の頭は一生痒いままになるぞ!』**って!」
観客から、苦しげな、押し殺したような笑いの波がドッと押し寄せた。松本のボケは、もはや時空を超えた、不条理の嵐だった。
浜田は、ついに腹筋が限界に達した。彼は腰を折って膝に手を突き、声を殺して笑う音だけを漏らした。その顔は、涙と笑いでぐちゃぐちゃだった。
「ほ、ほー……w なんで未来の自分が、金がないからって、ショート動画のコメント欄に人生の警告を書き込むんや……w」
彼はツッコミを完全に放棄していた。
笑いすぎて、怒りの感情の味を忘れ、周囲の観客は、ネタの面白さと、ツッコミ役が崩壊する光景という二つの波にのまれ、最大の爆笑に包まれた。
浜田は、このカオスを終わらせる役割だけが残っていることを思い出し、震える身体を奮い立たせた。
「アホかーー!未来の自分から警告が来るショート動画なんか、誰が作るんや!」
愛と、諦めと、止めどない笑いを込めて、浜田は松本のデコに、**乾いた「ペチン」**という音を響かせた。
「w」
浜田はまた吹き出した。松本は微動だにせず、次の言葉を放った。
「だってな、浜田。未来の俺からのコメントをな、全部ハートマークで返信したら…」
松本は、構わずに次の不条理の扉を開けてしまった。浜田は、また腰を折って、**「いつまで言ってんねん…w」**と小さく呻き、その場に留まるしかなかった。
浜田は、松本の肩を掴んで、強引に漫才を締めくくった。
「もうええ!もう終わりや!YouTubeの未来を背負うな!」
周囲の観客から、熱を帯びた、雑然とした拍手が送られる。浜田は汗だくの額を拭い、人々の顔を見渡した。彼らの満たされた表情が、このゲリラ漫才の最高の報酬だった。
観客は徐々に日常の雑踏の粒へと戻っていった。
「帰るぞ、松本」浜田は、ポケットから煙草を取り出した。
「何やねん、ちゃうやろ。さっきのデコ・ペチン、効いてへんやろが」
「効いてへん。でも、お前のツッコミ、途中から楽しんでたやろ」
浜田は、松本の底知れない才能と、それに抗えない自分の運命に、苦い液体を飲み込むような思いだった。
「明日、事務所でライブの打ち合わせや。遅れんなよ」
「ああ。なあ、浜田」
「何や」
「俺、今日、新しい『不条理の入り口』を見つけた気がするわ」
松本はそう呟くと、返事を待たずに、雑踏の中へ、まるで消えるように歩き去った。
浜田は煙草に火をつけ、その背中を見送った。煙を吐き出すたびに、笑いと疲労が混じった白い息が夜空に消えた。
(また、とんでもないデタラメが始まるんやろな)
彼は、松本の異常な才能と、それに付き合わされる自分の運命を呪いながらも、次の漫才が待ち遠しいと心の奥底で感じていた。
これが、賞レースではなかなか勝てないが、ゲリラ漫才では常にカルト的な人気を誇る、コンビ『タウンダウン』の日常だった。
翌日、昼過ぎ。二人が所属する芸能事務所の待合室は、まるで熱を奪われた古い冷蔵庫のような空気が漂っていた。窓の外は曇天で、湿った寒さがガラス越しに伝わってくる。壁には、ブレイクした先輩芸人たちの薄っぺらい笑顔のポスターが、古びた画鋲で留められていた。
浜田は、パイプ椅子に浅く腰掛け、苛立ちを隠せない様子で貧乏ゆすりをしていた。昨日のゲリラ漫才の興奮は、事務所の重苦しい空気によって完全に冷やされている。彼の全身からは、早くここから抜け出したいという、刺々しい匂いが漂っていた。
「ったく、なんでいつもこう、待たされんねん」 浜田は舌打ちをし、ポケットから取り出した煙草を、箱に戻した。この事務所は全面禁煙だ。その小さなルールさえも、彼の自由を縛る見えない鎖のように感じられた。
横のソファに深く沈み込んでいる松本は、浜田の苛立ちとは対照的に、まるで置物のように微動だにしなかった。彼は、窓の外の灰色の空を、何の感情も持たない魚の目のような瞳で見つめている。
「なあ、松本。聞いとんのか。今日のライブ、新ネタ一本やで。昨日言ってた『不条理の入り口』とやらは、どうなってんねん」
浜田が声を荒らげると、松本はゆっくりと顔だけを浜田に向けた。
「あのな、浜田。入り口はな、見つけただけではあかんねん」 松本の声は、昨日の漫才の熱狂とはかけ離れた、細く、粘性のない液体のようだった。
「は?何がや」
「入り口を見つけたら、その扉を開けるための道具が必要やろ。昨日までのお前のツッコミは、ただの鉄パイプやった。あの硬さやと、扉が壊れて、中身が全部飛び散ってしまう」
浜田は、松本の突拍子もない比喩に、反射的に怒鳴ろうとしたが、昨日の漫才の「敗北」が喉に引っかかった。
(また始まった。こいつの頭の中の、面倒くさい哲学が)
「鉄パイプで何が悪いねん。デタラメには、力で押し返すのが一番やろが!」
「ちゃうねん。扉の向こう側はな、もっとフワフワした、触ったら形が変わってしまう不条理なんや。そこを鉄パイプで突っついたら、全部逃げてしまう」 松本は、両手の指先を互いに近づけ、目に見えない泡を扱うように動かした。
「俺が欲しいのは、もっと柔軟で、粘着力があって、掴んだら笑いになるツッコミや」
「そんなもん、どんな道具やねん!」浜田は苛立ちのあまり、持っていた雑誌をソファに叩きつけた。
その瞬間、扉が開いた。
中から出てきたのは、彼らのチーフマネージャー、田辺だった。田辺は、いつも顔に無理矢理貼り付けたような事務的な笑顔を浮かべている。
「おう、二人とも。お待たせ。社長室に入れ。打ち合わせ始めるぞ」
社長室に入ると、部屋は待合室とは違い、煮詰まったコーヒーと、古くて重い成功への欲望のような匂いが充満していた。部屋の中央には、社長が、大きな岩のように座っていた。
社長は、彼らのゲリラ漫才を知らない。彼が知っているのは、賞レースで結果が出ない『タウンダウン』の現状だけだ。
「えー、早速だが、次のライブ、お前たちは二番手だ」社長が低い声で言った。 松本は何も反応しない。浜田は、拳を握りしめた。
「二番手って…、トリは誰なんすか?」
「『ネオ・トラッド』だよ」
『ネオ・トラッド』は、最近SNSで「清潔な毒舌」がウケて人気急上昇中の若手コンビだ。彼らの笑いは、松本の不条理とは真逆の、論理的で分かりやすい風刺だった。
「ふざけんな!なんであんな、教科書みたいな漫才にトリを渡されなあかんねん!」 浜田が怒鳴る。その声が、静かな部屋で響き、コーヒーの苦い香りを際立たせた。
社長は、松本に目を向けた。松本は、まだ窓の外を見つめている。 「松本。お前、何か言いたいことはないのか。新しいネタは持ってきたんだろうな」
松本は、ようやく静かに口を開いた。
「社長。俺が今考えているのはね、**『SNSのアルゴリズムを信じすぎた結果、自分が誰だか分からなくなったユーチューバー』**の話ですわ」
浜田は、隣で頭を抱えた。 (また、ややこしいのが始まったw)
松本は、目の前の社長ではなく、社長室の窓の外に広がる無関心な都会の景色に向かって語り始めた。
「そのユーチューバーはね、『視聴者が何を求めているか』をアルゴリズムに聞きすぎて、自分自身が最適化されたデータになりきってしまうんですわ。朝起きるルーティンから、食べるもの、動画の切り出し方、全てがAIの指令通り。結果、彼は完璧に視聴者に愛される『何か』にはなったけど、それが『誰』なのかは分からなくなってしまった」
社長は、腕を組み、鉄のように硬い視線を松本に突き刺した。彼の顔には「だから、それがどう面白いんだ」という冷徹なメッセージが刻まれている。浜田は、この漫才が完全に事務所の空気に**「喧嘩を売っている」**ことを察し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。
「ええか、松本。漫才はな、哲学じゃない。**結論を出せ。**そのユーチューバーは、結局どうなったんだ」
社長の声には、怒りではなく、ビジネスマン特有の効率を求める冷たさが混じっていた。
松本は、その冷たいツッコミ(=現実)を待っていたかのように、にやりともせず、淡々とオチを口にした。
「はい。彼は、全てをアルゴリズムに委ねた結果、ついに究極の最適解に辿り着くんですわ」
松本はそこで一呼吸置き、社長の目を見た。
「**『次の最適解は、自分のチャンネルをブロックすることだ』**と、AIに指示されるんです」
社長室が、一瞬で真空になったかのような静寂に包まれた。浜田は、思わず持っていたボールペンを床に落とした。そのカチッという音が、異常に大きく響く。
(あかん、これはあかん……w。論理が崩壊してる。ブロックしたまま、どうやって生きていくねん……)
浜田は笑いたいのに笑えない。これは笑いではなく、純粋な不合理だった。昨日のゲリラ漫才では笑いに昇華できた不条理が、事務所という**「正解」を求める場所で、ただの「異物」**として浮き上がっていた。
社長の顔は、怒りを通り越し、困惑と疲労で歪んでいた。松本のボケは、社長の持つ**「成功の論理」**という防御壁を、音もなくすり抜けて破壊していた。
「……松本」
社長は、絞り出すように言った。
「結局、そのネタで、お前は何が言いたいんだ」
松本は、窓の外の灰色を見つめ直した。
「俺は何も言ってませんよ。『アルゴリズム』がそう言ってるだけです」
その瞬間、浜田はツッコミの「道具」を完全に失った。
(無理や。俺の鉄パイプじゃ、こいつのフワフワした不条理はもう突っ込めへん……)
社長は、大きくため息をついた。そのため息は、部屋の煮詰まったコーヒーの匂いさえも薄めてしまうような、深い敗北の音だった。
「もういい。もういい、松本。そのネタは、次のライブではやらなくていい」
社長は、もはや二人の目も見ず、田辺マネージャーに事務的な声で指示した。
「ネオ・トラッドのトリは変えない。タウンダウンは予定通り二番手で。以上だ。お前らは、早く出ていけ」
浜田は、立ち上がりながら、無言のまま松本の背中を小突いた。怒りではなく、**「巻き込むな」**という諦めの感情が込められていた。
社長室の扉を閉めると、待合室の冷たい空気が、火照った浜田の頬を撫でた。
「おい、松本!てめぇ、何てこと言うてくれとんねん!あれじゃ、俺らがただの変な奴やろが!」
松本は、ポケットに両手を突っ込んだまま、歩き出す。
「ちゃうねん、浜田。あれはな、最高の**『不条理の入り口』**やったんや。俺はあのネタで、扉がどこにあるか、社長に見せただけや」
松本の横顔には、満足げな笑みが浮かんでいた。
(そうか。こいつは、怒られて、初めてネタが完成するんか)
浜田は、松本の背中を追いかけながら、昨日のデコ・ペチンでも、今日の社長の怒鳴りでも、この男の不条理な才能は止まらないのだと、改めて悟った。
駅へと向かう道すがら、浜田は昨日より一層、松本の横顔が遠い存在になっているのを感じた。そして、次にその「不条理の扉」が開く時、自分はどんな道具でツッコミを入れればいいのか、答えが見つからないままだった。
終わり(笑)
扉を開けば、すぐそこ。 黒瀬智哉(くろせともや) @kurose03
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。扉を開けば、すぐそこ。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます