決勝の残響:テカテカ光線、一瞬の奇跡

 M-1決勝戦。舞台裏の廊下は、防音のために分厚い絨毯が敷かれ、喧騒が遠い。最終出番前の待機場所。真冬の川の水のように冷たく、重い緊張が、二人を包んでいた。


 テカテカ(マユ)は、舞台袖の暗闇に立つ。その顔には、照明を浴びたプラスチックのように完璧で均質な笑顔が既に貼り付いているが、彼女の手のひらは、湿った雪のように冷たい汗で覆われていた。


 一方の光線(ヒカリ)は、互いに視線を交わさないマユの横で、静かに深呼吸を繰り返す。彼女のイヤモニからは、今にも舞台に上がる前の前コンビへの拍手が、遥か遠くの波のように聞こえてくる。ヒカリにとって、マユの突飛な思考は、ときに頭痛の種であり、同時にこのコンビを唯一無二にする、眩しすぎる光源なのだ。



「テカテカ光線さん、どうぞ!」



 分厚い防音扉が開く。熱狂の轟音が、瞬間的に冷たい空気を押し戻した。二人は舞台へ。



 照明が絞られ、一本のセンターマイクが聖火のように輝く。



「ねーねー、光線ちゃん!最近のSNSって、どんどん進化してるよね!」マユの声は、まるで弾んだゴムボールのように、軽く、よく通る。


「うん、そうね。新しいアプリもたくさん出てるし。」ヒカリは淡々と応じる。


 マユは身を乗り出した。


「私、最近見つけちゃったんだけどね、SNSで『疲れた』って投稿すると、投稿を見たフォロワーさんのスマホから、温かい蒸しタオルが自動で出てくるアプリがあるの!」


 客席から、堰を切ったように「かわいい!」という嬌声が漏れる。


 ヒカリの脳裏には、フォロワーのスマホから噴出する、温泉地のような硫黄の香りが幻として漂い、一瞬で消える。彼女は両手を腰に当てた。


「なんでやねん!」


 ヒカリのツッコミは、マユのメルヘンな世界を一撃で打ち砕く鋭利なハンマーだ。


「スマホから蒸しタオル出すな!それもうスマホが温泉旅館の仲居さんやないか!優しさを物理的に届けようとすな!」


 ドッと大きな笑いの奔流が、舞台上の二人を包み込む。


 この熱狂は、二人のエネルギーとなって浮上させる。審査員席の奥、いつも厳格な表情の審査員の一角から、古い教会の鐘のような低く響く笑い声が一つだけ、確かに聞こえた。


 マユは構わず、次のボケを繰り出す。


「未来のダイエットはね、食べたいものを写真に撮ってSNSに投稿するだけで、なぜかお腹がいっぱいになるんだって!」


「はぁ!?写真撮るだけで満腹になるわけないでしょ!」


「なるの!だって、『いいね』がつくごとに、その食べ物の情報が脳にダイレクトに伝わって、食べた気になれるんだよ!」


 ヒカリの網膜には、フォロワーの『いいね』の数が、パチパチと音を立てながら増えていくデジタル数字として映し出された。


 マユは最後のボケを投下する。


「実は、『いいね』が 1,000個を超えると、その食べ物のカロリーがなぜかマイナスになって、投稿するだけで痩せるんだって!」


 これは、エネルギー保存の法則を嘲笑う、悪魔的な論理だ――ヒカリは一瞬、ツッコミを忘れてそう錯覚した。


 そして、客席から湧き上がったのは、ただの笑いではない、熱狂と驚愕が混ざった大いなる唸りだった。


「なんでやねん!」


 会場全体が、まるで巨大な波のように揺れた。


ヒカリの頭の中で、『いいね』の数字が 1,000 を超えた瞬間、青白い稲妻が走ったような錯覚を覚えた。それは、笑いが成立した、という絶対的なサイン。


 ヒカリはマユの腕を軽く叩きながら、愛を込めたツッコミを叩きつける。


「そんなダイエットがあったら、みんな毎日カフェで写真撮りまくって、世界中の人が骨と皮だけになっとるわ!カロリーは運動で消費してよ!」


 彼女のツッコミは、観客が心の奥底で抱える「理不尽さ」への代弁者となっていた。


『えーん!』とマユは泣き真似をしながら、ヒカリに抱きつく。その幼い仕草が、最高潮の笑いを一瞬で「愛しさ」へと変えた。



「もういいわ!」



 ヒカリは少し照れたような笑みを浮かべる。


 二人は深々と頭を下げた。スポットライトは眩しく、汗と高揚感に包まれた二人の肌の上で、光の粒子が真珠のようにきらめいた。



 ―舞台袖―。


 二人は大歓声の残響と共に、分厚い防音扉の向こう側へ滑り込んだ。扉が閉まる。


 一瞬、鼓膜に残ったのは、大歓声の津波が引いたような耳鳴りだけだった。マユとヒカリはハイタッチをする代わりに、その場でただ肩で息をした。



「楽しかったね」



 マユが絞り出した声は、舞台上での弾んだゴムボールのような声ではなく、砂時計から落ちる砂のような、静かな音だった。


 ヒカリは言葉を返さず、ただ力強くマユの背中を叩いた。


 残されたのは、甘い疲労感と、最高の漫才を終えた達成感の暖かい残火だけだった。


 二人が舞台袖に消え、熱狂の渦がわずかに引いた後、審査員席は静かな思考の場となった。


 審査員Aは、ペンをカチリと鳴らし、得点記入を終えた。彼女は隣の審査員Bに静かに語りかけた。


「恐ろしいわね、あの発想。SNSという日常をテーマにしながら、優しさや願望を物理法則の外側で解決しようとする。あの**『カロリーがマイナスになる』という理不尽さ**を、たった一瞬で観客に飲み込ませた。ボケの純度が高い。」


 審査員Bは眼鏡を押し上げ、深く頷いた。


「ええ。何よりツッコミの光線(ヒカリ)の技術ですよ。ただ可愛いだけのコンビなら、あの荒唐無稽なボケは受け流されてしまう。『骨と皮だけになっとるわ!』という関西弁の力強さが、ファンタジーを現実に引き戻す錨になっている。あれは、計算された愛のツッコミです。」


 場所は変わり、別の待機室。決勝に勝ち残った**男性コンビ『鋼鉄ロケット』**の二人は、設置されたモニターに映し出された拍手と歓声を、無言で見つめていた。彼らの顔は、自分たちの出番を前にして、焦燥と敗北感に染まっている。


「……えぐいな」


 ツッコミのタケシが、絞り出すような声を出した。マイクに近寄りながら、マユが**『いいねが1,000個を超えた瞬間』**を語るあの、狂気的な輝きが、まだ網膜に焼き付いている。


「あんなの、理屈じゃない。計算して作れる笑いの線路の外側を走ってる。俺たちが必死に緻密にレールを敷いてきたのが、馬鹿みたいだ」ボケのケンジが、手に持っていたネタ帳を強く握りしめた。


「ああ。俺たちは、『テカテカ光線』という、光り輝く新しい時代のルールを見てしまったのかもしれない」タケシは、モニターの向こうで深々と頭を下げるマユとヒカリの姿から、目を離すことができなかった。


 この熱狂を前に、彼らは悟る。M-1という舞台で、二人の女性が起こした一瞬の奇跡が、今年の頂点を決めてしまったのだ、と。


(完)

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扉を開けば、すぐそこ。 黒瀬智哉(くろせともや) @kurose03

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