悪魔と雨やどりの家

 古びたデリバリーバッグの骨組みが、畳の上に広げられた。白く細いプラスチックのパイプは、かつて熱い弁当や冷たいドリンクを雨風から守っていた役目を終え、今、ある男の手によって新しい形を与えられようとしていた。カチャリ、カチャリとジョイントが組み合わされ、骨組みはあっという間に、四角いテーブルのようなシンプルなフレームとなった。


「さて、次は」


 男は物置からビニールシートを取り出すと、フレームにふわりと被せ、惜しみなくビニールテープでその縁を固定していく。これで、水は弾かれる。風をしのぐ盾ができた。


 それを手に、男は外に出た。雨に濡れたコンクリートの地面。生い茂る草木の脇に、そのフレームは慎重に置かれた。小屋の奥がわずかに広くなるように組まれたのは、ここに訪れる唯一の「客」を迎え入れるための、密かな配慮だ。


 小屋の足元には、風対策に重し代わりにビール缶が立てかけられた。そしてその内側には、いつもの餌と水。そして極めつけは、冷たい地面から「客」を守るための段ボールの敷物。


 男の視線が、モニターに映し出された写真へと移る。


 そこにいるのは、全てを吸い込んだような真っ黒な毛並みを持つ一匹の猫だった。つぶらな瞳をカッと見開き、好奇心とわずかな警戒を込めて男を見上げている。


 奴は、雨の日も、風の日も、この家の外で生きてきた。男は知っていた。


「これでどうだ。少しは快適だろう」


 男の作った**「雨やどりの家」**。それは、デリバリーバッグの残骸と、ビニールと、そして小さな命への静かな思いやりだけで作られた、世界で一番シンプルなシェルターだった。その日、コンクリートの片隅に、黒い毛玉が段ボールの上に丸くなり、安らかに食事をする光景を、男はひっそりと待つのだった―。



 いつもの玄米茶が、ここにある。湯気の向こう、窓の外は鉛色の闇に覆われていた。


「うん。美味いに決まってんだろう!」


 熱い液体を喉に流し込むと、脳の奥で微かな電流が走る。その瞬間、男――黒瀬智哉は、気づいた。


「おや?外は雨が降ってきた。」


 ただの雨ではない。まるで地上の全てを洗い流そうとするかのような、激烈な音を立てる豪雨だ。



 ざわめく。私に宿る悪魔が――ざわめいている。


 待ちに待ったこの時が、ようやく来た。


 一ヶ月以上もの、空白期間を経て―。



 古ぼけたルーターを接続する。ブツリ、とランプが点灯した瞬間、黒瀬智哉の日常は終わる。彼の内面で、作家としての真の姿――『悪魔』が目を覚ます。



『黒瀬智哉の悪魔的日常』が、ようやく執筆再開だ。



 どんな展開にして行こうか。とてつもなく凄い展開にしなければならない。悪魔が許さない。



 今の彼は、普段の彼からは考えられないような奇妙な行動を取っている。台所に行き、古いデリバリーバッグの残骸を引っ張り出した。パイプとジョイント、そして埃を被ったビニールシート。


 これは、こうすることでアイデアが降りて来るのを待っているのである――。


 作家が小説を書く時に、もっとも大事なことはアイデアである。


 それが枯渇していては、どんな作品も生み出せない。


 いつそれ(アイデア)が生まれるのか?それは誰にもわからない。本人にもである。それは、ふとした拍子に急に降りてくる。


 そして、そのアイデアを呼び出すための「儀式」こそ、この奇行だった。



 翌朝、雨脚は弱まっていた。黒瀬は、前夜の衝動のままに作り上げた奇妙な構造物を手に、外に出る。


 デリバリーバッグの白い骨組みは、ビニールに覆われ、簡易的なシェルターとなっていた。コンクリートの地面に設置すると、底冷えを防ぐために段ボールを敷き詰める。風で飛ばされないよう、四隅にビール缶を重しにした。


 小屋の奥が広がるように設計したのは、純粋な機能性のためか、それとも悪魔的な美学か。中に置かれた餌と水は、まるで聖なる供え物だ。


 彼は窓越しに、その「儀式」の成果を待った。


 やがて、びしょ濡れになった黒い毛玉が、茂みの中から現れた。彼の「奴」、つぶらな瞳の黒猫だ。猫は警戒しつつも、雨風をしのげる空間と、乾いた段ボールの床、そして餌の誘惑に抗えず、恐る恐る小屋の奥へと身を滑り込ませる。


 その小さな命が、安堵と満腹感に満たされる様子を眺めながら、黒瀬の内なる悪魔は囁いた。


「そうだ。善行とは、悪の最高の隠れ蓑になる。この不条理な優しさこそが、読者を最も揺さぶるアイデアだ」


 黒瀬の手に力がこもる。ルーターが接続されたノートパソコンに向かい、彼は執筆を再開した。


 デリバリーバッグの残骸が作った雨やどりの家は、かくして、一人の作家の「悪魔的日常」の、新たなプロローグとなった。黒瀬智哉は、その「不条理な優しさ」から得たエネルギーを、今、目の前のデジタルデバイスへと注ぎ込んでいた。



 ――彼はマクドナルドの片隅にいた。昼下がりの喧騒、BGMの明るい響き。そのコントラストが、彼の内なる戦いの苛烈さを際立たせる。


 ありとあらゆることが足かせになり、それが本来の目的が達成出来なくなり――。


「だが、それらも回避しようと別の方法を試みる。」


 今日の裏側では、この絶望的な頭脳戦が展開されていた。目の前の『HiM.3』という名のノートPCの画面には、地獄のパズルが展開されている。彼は最新のスマートフォンで動画ファイルを撮影した。コーデックはH.265。高画質だが、新しい規格だ。



 問題はここから始まる。



 彼の愛機、Windows 10の標準の「動画編集+」は、H.265をサポートしていない。映像ファイルそのものを取り込むことさえ拒否された。


「クソが」


 彼の内なる悪魔が、舌打ちする。画面の指示通り、HEVCコーデックのインストールを進めようとリンクをクリックする。しかし、この戦場たるマクドナルドのフリーWi-Fiが、セキュリティの関係でウェブサイトそのものの表示を拒否した。


「――アウト」


 第一ラウンド、敗北。



 黒瀬はすぐに別の方法を試みる。地獄の連想ゲームだ。次は「VLC Media Player」をダウンロードし、変換機能で汎用性の高いH.264形式のMP4にすることに成功した。


 期待を込めて、このMP4を「動画編集+」に取り込もうとする。だが、何故かできない。理不尽。無情。


 仕方なく、今度はMicrosoft Storeが薦める「Duo Video Converter」という名の新たな敵に挑む。ダウンロード、インストール、そしてH.264形式のMP4への変換。成功。



 動画編集+で取り込みは可能になった。



 だが、標準指定の変換では恐ろしく画質が悪い。


 変換の指定を見直し、クリアな画質を目指す。そこで、Duo Video Converterの正体が露呈した。



「それで変換するなら課金をしろ」



 画面に大文字で金が要求される。悪魔的なソフトウェアの罠だ。



「無料でやりたいなら映像ファイルの最初の30%だけ変換してやるよ」



 黒瀬は嗤った。試してみると、キッチリ冒頭の30%だけ切り離されて変換された。そして、変換後の映像の下部には、巨大な広告がべったりと載っていた。



『冒頭30%だけだし、広告入り映像など使えるかッ!』



 悪魔は苛立った。しかし、このイライラこそが、彼の執筆の燃料でもある。


 最終手段として、彼は元映像ファイルをそのままYouTubeへアップロードすることにした。不安定なフリーWi-Fiが断続的に途切れ、重いアプリケーションのダウンロードが突然止まる苛立ちの中で、彼はひたすらアップロードを見守る。



『そのYouTubeでエンコード後のファイルをダウンロードすれば、動画編集+で動画編集が出来るのでは?』



 一縷の望み。だが、不安定なマクドナルドのWi-Fiは、彼の神経をギリギリと削っていく。フリーWi-Fiに接続しても、しばらくすると勝手に接続が切れ、ダウンロード中に席を外して戻ると、途中で止まっている。


 ほんと、この一進一退は楽しくもあるが。時間ばかり恐ろしく掛かるためイライラする。


 散々、苦労をしてYouTubeに上げたファイルはたったの二つ。しかも未完成動画。まあ。暇つぶし(遊び)にはなった――。



 そんなことをマクドナルドのフリーWi-Fiでポストしていると、スマートフォンが鳴った。ヤマト運送からの着信。



「So-netさんからのお届けです」と、配送スタッフが言ってくる。



(来た!So-netからのレンタルWi-Fiルーターがぁぁぁ!)



「玄関先に置いておいてくださいッ!」と言っておいた。



 黒瀬智哉は、ノートPCをバタリと閉じた。目の前に広がるデジタル戦争の残骸を眺めながら、彼は静かに呟く。



「今日一日、私は何をしていたんだww」



 悪魔的日常は、時に、かくも滑稽で不毛な一日の終わりを迎えるのだった――。



 ルーターが届いたという事実に、彼の内なる悪魔は飢えたように歓喜していた。 



 本日の夕食は超時短調理にした。明太子スープパスタと千切りキャベツの胡麻ドレッシング和え、そしていつもの玄米茶だ。


 熱い玄米茶を一口。 「うん。美味いに決まってんだろう!」


 彼は酒は飲まなかった。今夜、頭脳は最高の効率で働かせる必要がある。


 目の前の段ボール箱の中には、おそらくSo-netのレンタルWi-Fiルーターが入っているものと思われる。



「このサイズの箱は、おそらくルーターだ――。違いない!」



 明太子スープパスタをかき込む。美味いに決まっている。千切りキャベツは、「こんなもん誰でも作れる!」と笑い飛ばす。ただ胡麻ドレッシングをぶっ掛けるだけだ。美味いもクソもあるか。まあ、美味いよ。

 

 そして、その間にも、窓の外の雨脚は強まっていた。



「おや?外は雨が降ってきた。」


 なんか――。今夜は凄い雨になってきた。


 私に宿る悪魔が――ざわめいている。


 待ちに待った――。この日が、よ う や く 来 た。


 あのルーターを接続するだけで私は――。元の私(悪魔)に戻る。



 期待を込めて箱を開ける。中身はごく普通の市販のWi-Fiルーターに見えた。「特別仕様でない方がかえって良かったのかも知れない」と、彼は小さく満足した。性能は申し分ないだろう。


「このメッシュネットワークに対応していることがいい」


 彼の思考はすでに未来へと飛んでいる。自宅は二階建て。これは二階のPCルームに設置し、将来的には一階に中継機を設置して、家中どこにいてもWi-Fiが使える環境にする。さらにもっと進化させて、ホームサーバーを設置し、ローカル通信ネットワークを構築してやろう。


 とりあえず、サクッと設置しちゃおうか。


 ルーターなんて配線を差し込むだけで完了だ。


「よしゃ。これでメインマシン(GALLERIA)でX(旧Twitter)が普通に表示されたぜ」


 終わってみるとあっけないが、この日のためにどれだけ苦労したことか――。



 次は二台のスマートフォンもホームWi-Fiでインターネットに接続だ。


「モバイル通信など、この家ではいらんわ!」


 おお、これは凄い。さすがは5GHzのWi-Fiだわ。モバイル通信ではクソ重かったYouTubeが瞬時に再生された。マクドナルドのフリーWi-Fiなんかとは比較にならんほど速い。もう一台のスマートフォンも爆走。


 久しぶりのこの速度に、コイツも驚いているんじゃないのか?


 お次は『HiM.3(ノートPC)』のWi-Fi接続だ。『HiM.3』は、先ほどまでの糞重い通信環境下でのWindows Update中だったので、それを引き続き頑張って頂こう。一気に更新が完了するものと思われる。


 その間、黒瀬は勝利の余韻に浸る。メインマシン(GALLERIA)の前に座り、ドリップコーヒーとブランデーケーキでも楽しんでおこう。



 最低通信環境から最高通信環境へ。


 現在の彼の自宅には4端末のインターネット通信環境が整っている。その全てが爆速インターネットだ。


 1.Windows 11(GALLERIA)最新デスクトップゲーミングPC

 2.Google Pixcel 5G(スマートフォン)

 3.Redmi 5G(スマートフォン)

 4.Windows 10 (FMV)ノートPC


 4端末からの爆速インターネット環境。ここに、ひと昔前のWindows 10があることが面白い。つまり、Windows 10用のソフトウェアも試せる。



 黒瀬智哉はコーヒーを一口飲み、満足げに笑った。


 彼はついに、悪魔的な執筆と実験のための完璧な要塞を、この雨の夜に完成させたのだ。

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