エピソード2「記憶の断片を追う犬」

翌朝、有樹が目を覚ますと、ミカは既にソファに座ってテレビを見ていた。しかし、画面に映っているのはニュースでも番組でもなく、真っ青な空だった。


「おい、何でブルースクリーンなんだ?」


「……空を見ていた」


「空?テレビで?」


ミカは振り返らずに答えた。


「……ハチは、空が好きだった」


有樹は眉をひそめた。昨日からミカの様子がおかしい。まるで何かを思い出そうとしているような、そんな表情をしている。


「お前、本当にあの犬のこと知ってるのか?」


「……知らない。でも、知っている」


またいつものわけのわからない答えだった。有樹は諦めてコーヒーを淹れに台所へ向かった。


---


午後、二人は再び「デジタルエデン」を訪れた。受付で待っていると、田中博士が慌てた様子で現れた。


「昨夜から、システムに異常が続いています」


「異常?」


「ハチが…あの柴犬が、勝手に施設内を動き回るんです。プログラムされた範囲を超えて」


3階の飼育エリアに向かうと、確かにハチのホログラムが部屋の端で立ち止まっている。そこは研究室の奥にある、立ち入り禁止のエリアへ続く廊下だった。


「ワンワン!」


ハチがミカを見つけて駆け寄ってくる。しかし、すぐに元の場所に戻り、廊下の方を向いて鳴き続けた。


「何かを探してるみたいですね」有樹が観察する。


田中博士は困った表情で頭を掻いた。


「実は…お話ししなければならないことがあります」


---


田中博士は三人を応接室に案内した。コーヒーを注ぎながら、重い口を開いた。


「ハチのモデルとなった犬がいるんです。私の愛犬で、3年前に亡くなりました」


「つまり、あのハチは博士の犬のデータってことか?」


「ええ。でも、ただのデータのはずなんです。感情なんて…」


田中博士の声が震えている。


「このシステムを開発したのも、彼を忘れたくなかったからです。でも、まさかこんなことになるなんて」


ミカが静かに口を開いた。


「……ハチは、あなたに会いたがっている」


「え?」


「……でも、あなたは彼を避けている」


田中博士の顔が青ざめた。確かに、ハチのホログラムとは直接接触を避けていた。


「私には…彼に会う資格がありません」


---


田中博士が重い口を開いて語り始めた。


「ハチは雑種の柴犬でした。保護犬として我が家に来たのは、彼が2歳の時。最初は人間不信で、なかなか心を開いてくれませんでした」


窓の外を見つめながら、田中博士は続けた。


「でも、時間をかけて少しずつ信頼関係を築いて…彼は私にとって家族以上の存在になりました。研究で行き詰まった時も、ハチがそばにいてくれるだけで頑張れた」


有樹は黙って聞いていたが、田中博士の表情に深い後悔の色を見て取った。


「最期の日のことです。ハチが体調を崩して、緊急で動物病院に運ばれました。でも、その日は重要な学会発表があって…」


田中博士の声が詰まった。


「私は病院に駆けつけることができませんでした。ハチは一人で…最後まで一人で頑張って、そして…」


沈黙が部屋を支配した。ミカが田中博士を見つめている。


「……あなたは、自分を責めている」


「当然です。最後の瞬間に、そばにいてやれなかった。彼は私を待っていたのに」


ミカは少し考えるような仕草をした。


「……ハチは、あなたを責めていない」


「え?」


「……彼は、『ありがとう』と言いたがっている」


田中博士は驚いて立ち上がった。


「どうして、そんなことが…」


---


その時、施設のアラームが鳴り響いた。慌てて3階に戻ると、システムに重大な異常が発生していた。


ハチのホログラムが激しく点滅し、時には完全に消失し、時には異常に明るく光っている。他のペットたちも不安定になり、施設全体が混乱状態に陥っていた。


「システムがクラッシュします!」


スタッフが慌てて報告する。


「ハチのデータが異常な負荷をかけています!」


田中博士が必死にタブレットを操作するが、状況は改善されない。


「このままでは、全てのデータが消えてしまいます」


その時、ミカがハチの方へ歩いて行った。


「危険です!」


田中博士が制止しようとしたが、ミカは立ち止まらない。


不安定に点滅するハチのホログラムに、ミカが手を伸ばした。触れた瞬間、周囲の空間が激しく歪んだ。光が渦を巻き、現実と仮想の境界が曖昧になる。


有樹には見えた。一瞬だけ、本物の柴犬がそこに立っているのが。


「……君は、ずっと彼を待っていたのね」


ミカの声が、不思議な響きを持っていた。


ハチのホログラムが安定し、ミカを見上げて小さく鳴いた。それは悲しみではなく、安堵の声だった。


「……彼は、あなたのことを愛している。今も、これからも」


ミカが田中博士に向けて言った。


「……だから、もう自分を責めないで」


---


システムの異常は収まったが、田中博士は呆然と立ち尽くしていた。


「どうして…どうして君は、ハチの気持ちがわかるんだ?」


ミカは答えずに、安定したハチのそばに座り込んだ。ハチは嬉しそうに尻尾を振り、ミカの膝に頭を乗せるような動作をした。


「……動物は、純粋だから」


「純粋?」


「……愛に嘘がない。恨みもない。ただ、愛している人の幸せを願っている」


有樹は腕を組んでその光景を見ていた。ミカの言葉には、いつもとは違う重みがあった。まるで、長い経験に基づいて話しているような。


田中博士がゆっくりとハチに近づいた。


「ハチ…すまなかった」


ハチのホログラムが田中博士を見上げた。その目には、確かに感情が宿っているように見えた。


「君を一人にして、本当に申し訳なかった」


田中博士がハチに手を伸ばした時、奇跡が起きた。一瞬だけ、ハチのホログラムが実体化し、温かな毛の感触が田中博士の手に伝わった。


「ハチ…」


田中博士の目から涙がこぼれた。長い間押し殺していた後悔と愛情が、一気に溢れ出した。


ハチは満足そうに鳴くと、ゆっくりとホログラムの状態に戻った。しかし、その表情には平安が宿っていた。


「……彼は、もう大丈夫」


ミカが静かに立ち上がった。


「……でも、まだ他にもいる。同じように苦しんでいる子たちが」


有樹が振り返った。


「他にも?」


施設を見回すと、確かに他のペットたちも何かを訴えるような表情をしている。


「明日も来る」


ミカが田中博士に言った。


「……みんなに、会いに来る」


田中博士は頷いた。今日起きたことの意味は完全には理解できないが、確実に言えることがあった。


ハチは、確かにそこにいる。


そして、まだ語られていない物語が、この施設には眠っている。

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