第10話 囁きを聞いた料理人 エピソード1「新しい厨房、新しい出会い」

 今朝もShort Worksのアプリを眺めながら、俺は適当にスクロールしていた。コンビニの品出し、イベント設営、倉庫作業……どれも見慣れた仕事ばかりで、正直どれでもいいといえばどれでもいい。


「……今日は何をする?」


 ミカがアイスを舐めながら、俺の携帯画面を覗き込んでくる。相変わらず朝からアイスかよ。


「適当に決めるさ。お前も一緒に来るんだろ?」


「……行く」


 短い返事だが、最近のミカは俺の後をついてくることが多い。別に嫌じゃないが、たまに職場で「弟さん?」って聞かれるのが面倒だった。


 スクロールを続けていると、ちょっと変わった求人が目に留まった。


『高級フレンチレストラン「ル・シルク」ホールスタッフ急募!経験者優遇、未経験可。時給1500円。2名同時募集』


 高級レストランか。悪くない。時給も他より少し高めだし、ミカと一緒に働けるなら都合がいい。


「ここにしよう」


 俺がタップすると、ミカが画面を見つめた。


「……料理を作る場所?」


「そうだな。お前、高級料理って食べたことあるか?」


「……記憶にない」


 そりゃそうだ。記憶喪失だもんな。


 面接の予約を取って、昼過ぎに現地へ向かった。レストラン「ル・シルク」は繁華街の一角にある、こじんまりした佇まいの店だった。外観は控えめだが、入口のガラス越しに見える内装は確かに高級感がある。


「いらっしゃいませ」


 出迎えたのは、20代後半くらいの女性だった。黒髪をきっちりとまとめ、白いブラウスにベストを着た、いかにもプロらしい服装。顔立ちは整っているが、何より印象的だったのは、その落ち着いた立ち振る舞いだった。


「Short Worksから応募した土田です。こちら、一緒に働く予定のミカです」


「ありがとうございます。ソムリエの香織と申します。店長代理も兼ねておりまして」


 香織は俺たちを店内の一角に案内してくれた。昼の営業時間外らしく、客席は静かだ。テーブルの向こうから、厨房で何かを刻む音が聞こえてくる。


「まず、こちらのお店について説明させていただきますね」


 香織は丁寧に説明を始めた。ランチとディナーの営業、客層は30代以上のカップルや接待が多いこと、そして——


「オーナーシェフの桐山なのですが、聴覚に障害をお持ちなんです」


 俺は少し驚いた。聴覚障害のシェフか。


「コミュニケーションは主に手話で行いますが、私が通訳いたしますので、ご心配なく。桐山シェフは唇の動きを読むのもお上手ですし、筆談でも大丈夫です」


「手話はできませんが、問題ないでしょうか?」


「はい、大丈夫です。皆さん最初はそうですから」


 その時、厨房から一人の男性が現れた。40代前半くらいだろうか。白いコック服を着て、短髪をきちんと整えている。少し疲れた表情だが、目に強い意志を感じる人だった。


 香織が手話で何かを伝えると、男性——桐山シェフは俺たちに軽く頭を下げた。


「桐山シェフです。よろしくお願いしますとおっしゃっています」


 俺も頭を下げて挨拶した。ミカも同じように頭を下げる。桐山シェフはミカを見て、少し驚いた表情を見せた。確かに、ミカの中性的な美貌は初見の人間を驚かせることが多い。


 香織の通訳を通じて簡単な面接を済ませ、俺たちは採用された。明日から三日間の短期バイトだ。


「それでは、明日の11時からお願いします。制服はこちらでご用意いたします」


 翌日、俺たちは「ル・シルク」で初日を迎えた。


 香織に制服を渡され、俺は白いシャツに黒いベスト、ミカも同じような格好になった。ミカの場合、どんな服を着ても絵になるのが少し羨ましい。


「最初はお皿運びとテーブルセッティングからお願いします」


 香織の説明を受けながら、俺は店内を見回した。昼の営業開始まで1時間ほどある。厨房では桐山シェフが静かに準備を進めていた。


「土田さん、お皿の持ち方はこうです」


 香織が実演してくれるが、俺は昔の経験もあって、すぐに要領を掴んだ。


「上手ですね。以前もレストランでお働きになったことが?」


「昔、少しだけ」


 実際は、起業前に色々なバイトをやった経験があるのだが、詳しく説明するのも面倒だった。


 ミカはというと、香織の説明を静かに聞いて、言われた通りに動いている。相変わらず飲み込みが早い。


「お二人とも器用ですね」


 香織がそう言うと、俺は軽く頷いた。


「親戚の子なんです」


 ミカのことを説明すると、香織は少し驚いたような表情を見せた。


「そうなんですね。とても美しい方なので、お客様も驚かれるかもしれません」


 営業開始の時間が近づくと、桐山シェフが厨房から前菜のサンプルを持ってきた。彩り鮮やかな一皿で、見た目だけでも食欲をそそる。


「スタッフの皆さんにも味を知っていただこうと、桐山シェフが」


 香織の通訳で、俺たちも一口ずつ試食させてもらった。


 俺が一口食べた瞬間、確かに美味かった。食材の味が複雑に絡み合いながらも、全体として調和している。聴覚障害があるとは思えないほど、繊細で完成度の高い料理だった。


 ミカも同じように一口食べて、じっと味わっていた。そして、俺にだけ聞こえるような小さな声で呟いた。


「……この人は食材の声を聞いている」


 は? 食材の声?


 俺がミカを見ると、彼は桐山シェフをじっと見つめていた。桐山シェフも、なぜかミカの視線に気づいているようだった。


「どうかされましたか?」


 香織が心配そうに声をかけてくる。


「いえ、美味しかったので」


 俺はとっさにそう答えた。ミカの変な発言をいちいち説明するわけにもいかない。


 その後、昼の営業が始まった。俺は香織の指示に従って皿を運び、テーブルをセッティングした。さすがに高級レストランだけあって、客層も落ち着いている。


 それにしても、俺の動きは思った以上にスムーズだった。昔取った杵柄というやつか。


「土田さん、本当にお上手ですね。普通のバイトにしては手際が良すぎるというか……」


 休憩時間に香織がそう言ってきた。少し探るような口調だった。


「まあ、昔からこういう仕事は嫌いじゃなくて」


「今は何かお仕事を?」


「特には。気が向いた時にバイトをする程度で」


 香織は少し不思議そうな顔をした。40代の男が定職に就かずにバイトだけ、というのは確かに珍しいかもしれない。


「珍しいライフスタイルですね」


「まあ、色々あってね」


 その時、厨房の方を見ると、ミカが桐山シェフの料理する様子をじっと見つめていた。桐山シェフもミカの存在に気づいているようで、時々こちらを振り返る。


 何だか、あの二人の間に不思議な空気が流れているような気がした。


「ミカさん、とても集中されてますね」


 香織もミカの様子に気づいたようだ。


「昔からああなんです」


「親戚の方でしたね。とても綺麗な方で、お客様の注目を集めそうです」


 確かに、ミカの存在感は普通じゃない。客席からも何度か視線を感じた。


 初日はそんな感じで終わった。帰り際、桐山シェフが手話で何かを伝えてきた。


「お疲れ様でした、また明日もよろしくお願いしますとおっしゃっています」


 香織の通訳で、俺たちも挨拶を返した。


 店を出てから、俺はミカに聞いてみた。


「さっき、食材の声がどうとか言ってたが、あれは何だ?」


「……あの人の料理には、食材たちの想いが込められている」


「想い?」


「……それぞれの食材が、一番美しい状態で調理されることを望んでいる。あの人はそれを理解している」


 相変わらず抽象的だが、まあミカらしい答えだった。


「ふーん。まあ、確かに美味かったけどな」


 俺がそう答えると、ミカは小さく頷いた。


 明日もこの調子でやっていけそうだ。ただ、香織の俺への関心が少し気になるところではあるが……まあ、三日間だけの付き合いだ。深く考える必要もないだろう。


 そう思いながら、俺たちは夕暮れの街を歩いて帰った。

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