エピソード4「記憶の断片と帰り道の視線」

閉店時間が近づき、客たちは次第に帰っていった。最後の客を見送った後、有樹は椅子に座り込み、深いため息をついた。


「疲れたー...」


彼はウィッグに手を伸ばし、少し頭をかいた。女装はいつもより体力を使うものだと実感していた。化粧が崩れないよう気を付け、声を作り、立ち振る舞いに注意する。普段は気にしないことばかりだ。


「でも、案外悪くなかったな」


一方のミカは、静かに片付けを始めていた。ウィッグもドレスも、彼の身に着けるとまるで生まれながらのもののようにフィットしている。


「片付けが終わったら着替えましょうね」


麗華が声をかけると、有樹は素早く頷いた。


「ああ、もうこの格好はお腹いっぱいだ」


麗華は笑いながら厨房へと向かっていった。店内には二人だけが残された。


有樹は女装姿のミカを見た。彼は淡々と仕事をこなしていたが、どこか考え事をしているようにも見えた。


「お前、大丈夫か?」


ミカは振り向かず、答えた。


「...何が?」


「いや、なんだか考え込んでるみたいだから」


「...観察している」


「観察?何を?」


「...人間の姿形変化の意味を」


有樹は小さく笑った。相変わらずミカらしい返事だ。


片付けが一段落したとき、有樹はミカが化粧台の大きな鏡の前で静かに立ち尽くしているのに気づいた。彼は女装した自分の姿をじっと見つめていた。


「...記憶が戻った?」


有樹の質問に、ミカはゆっくりと首を振った。


「...境界を越えた者は、二度と元には戻れない」


その言葉に、有樹は息を呑んだ。ミカの口調には普段とは違う、何か深いものがあった。


「何のことだ?」


有樹がミカの肩に手を置くと、彼は少し驚いたように振り向いた。


「...わからない。けれど、誰かが言っていた言葉」


「誰が?」


「...思い出せない。記憶の断片」


有樹は黙って頷いた。ミカの失われた記憶の一部が、この「境界を越える」という体験によって呼び覚まされたのかもしれない。


「まあ、あんまり無理に思い出そうとするなよ。時間が解決することもある」


有樹はそう言いながらも、心の中では様々な疑問が渦巻いていた。ミカは本当に天使なのか。彼の失われた記憶の中には何があるのか。そして「境界を越えた者」とは何を意味するのか。


---


着替えを終えた有樹は、身体が軽くなった感覚を覚えた。メイクを落とし、ウィッグを外し、男性の服に着替えると、自分が戻ってきたような気がした。


「やれやれ、これでようやく俺に戻れた...」


しかし、ミカは着替えの前に麗華に呼ばれ、奥の部屋に入っていった。十分ほどして二人が戻ってくると、意外なことにミカはまだ女装したままだった。


「あれ?お前、着替えないのか?」


麗華が笑みを浮かべながら答えた。


「あら、ミカさんったら、この姿がお気に入りになったみたいなのよ」


「...形は変わっても変わらない」


ミカが短く答えた。


「せっかくこんなに似合ってるんだもの。そのままでいってもいいわ。それに...」


麗華はミカの耳元で何かを囁いた。ミカは無表情ながらも、わずかに頷いた。


「店の衣装を持ち出すのは...」


有樹が心配そうに言いかけると、麗華は手を振った。


「大丈夫よ。特別に貸してあげるわ。そのドレス、元々在庫処分予定だったものだし」


麗華はミカを見つめ、優しい表情を浮かべた。


「それに、この子にはどうしても似合うものを着てほしくて...」


有樹は少し困惑したが、ミカが着替えを望まないのなら無理強いはできないと思った。


「...まあ、いいけど。家に帰ったら着替えろよ...」


---


麗華に礼を言って店を出ると、夜の新宿の街が二人を出迎えた。ネオンが輝き、人々が行き交う雑踏。有樹は普段の姿に戻ったが、ミカは女装したままだ。美しい銀髪のロングヘアを揺らし、薄いブルーのワンピースを着たミカは、街行く人々の視線を集めていた。


「やっぱり目立つな...」


有樹はつぶやいた。駅に向かって歩きながら、彼はミカの真横に寄り添うように歩いた。時には肩が触れそうなほど近く、女装姿の美しすぎるミカを守るような姿勢で。


駅のホームでは、さらに多くの視線が二人に集まった。特に男性たちはミカを見て立ち止まったり、振り返ったりしていた。


「あの子、モデルかな...」


「綺麗だね...」


そんなつぶやきが聞こえてくる。有樹は少し不快に感じつつも、どこか誇らしくもあった。


電車が到着し、二人は乗り込んだ。夜の電車は少し混んでいた。有樹はミカの隣に立ち、手すりをつかんだ。


「変な視線を感じたら言えよ」


有樹は小声で言った。ミカは無言で頷いた。


揺れる電車の中、ミカは有樹の肩にもたれかかるような形になった。有樹は少し驚いたが、押し返さなかった。


「お前、わざとか?」


「...境界線が曖昧になると、人は本当の姿を見せる」


ミカの言葉に、有樹は首をかしげた。


「何言ってるんだ?」


「...この姿で歩くと、人々の視線が変わる。不思議だ」


確かに、ミカの周りの雰囲気は変わっていた。普段から美しい存在ではあったが、女装した姿はさらに強い引力を持っているようだった。


「そりゃそうだろ。お前、今日一番の美人だぞ」


有樹は半分冗談で言った。


「...美しさとは何だろう」


ミカは再び呟いた。それはさっき店で客に問いかけたのと同じ質問だった。


「さあな...人それぞれ違うんだろう」


有樹は答えながら、ふと麗華の言葉を思い出した。「美は形だけじゃない。それを知ってるのがあの子の凄さよ」と言っていたっけ。


電車を降り、夜の街を歩く二人。ミカの女装姿に視線が集まり、有樹は無言で彼の横に立った。


「明日からは普通の格好に戻るんだぞ」


「...姿が変わっても、中身は変わらない。でも人間は見た目で変わる」


「そういうもんだよ、人間は」


「...不思議だ」


ミカは夜空を見上げた。その横顔は、街灯の光を浴びて神秘的に輝いていた。


有樹は隣を歩くミカを見つめながら、心の中でつぶやいた。


(こんな美人と一緒に歩いていると、俺まで誰かに見られてる気分だ...変な話だな)


そして彼は、久しぶりに笑みを浮かべていた。この不思議な一日が、思いがけず心地よい余韻を残しているのを感じていた。


マンションに着くと、有樹は鍵を開けながら言った。


「さて、帰ったぞ。お前も早く着替えて...」


振り向くと、ミカは窓辺に立ち、夜空を見上げていた。女装した姿のまま、月明かりに照らされるミカの横顔。それは本当に、まるで天使のように見えた。


「...本当に天使なのか?お前は」


有樹のつぶやきに、ミカは振り向かなかった。ただ、小さく答えた。


「...境界の向こう側にいた者」


その夜、有樹の夢には羽を持つミカが現れた。境界線の向こう側から、何かを告げようとしているようだったが、その言葉は聞き取れなかった。


有樹が目覚めると、ミカはもう普段の姿に戻っていた。昨日のドレスは丁寧に畳まれ、クローゼットにしまわれていた。まるで、女装姿のミカは夢だったかのように。


しかし、「境界を越えた者は、二度と元には戻れない」というミカの言葉だけは、有樹の心に深く刻まれていた。

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