エピソード2「距離を縮める声」
「ル・シルク」での二日目。俺は昨日よりもスムーズに動けるようになっていた。
「土田さん、テーブル3番のオーダーです」
香織が注文を伝えてくれる。俺は軽く頷いて、厨房に向かった。
桐山シェフは相変わらず集中して調理している。俺が近づくと、彼は振り返って軽く会釈した。昨日よりも警戒心が薄れているような気がする。
俺は注文内容をメモに書いて見せた。桐山シェフは内容を確認して親指を立てる。これくらいの意思疎通なら、なんとかなるもんだ。
「……あの人、君を信頼し始めている」
ミカが俺の隣に立って、小さく呟いた。
「信頼って、まだ二日目だぞ」
「……人は言葉だけでコミュニケーションを取るわけではない」
確かに、桐山シェフとは筆談や身振りでやり取りしているが、意外と通じ合えている感じがする。料理人としてのプロ意識が共通しているからだろうか。
ミカはというと、相変わらず桐山シェフの調理を見つめている。今日は厨房の端で、じっとその手さばきを観察していた。
桐山シェフもミカの存在に気づいているようで、時々手話で何かを問いかける。ミカは手話はできないはずなのに、なぜか頷いたり首を振ったりして応答している。
不思議な光景だった。
昼の営業が一段落すると、休憩時間になった。香織が俺にコーヒーを淹れてくれて、スタッフルームで一息つく。
「土田さん、本当に慣れるのが早いですね」
「まあ、昔色々やってたんで」
「色々って?」
香織の質問に、俺は少し考えた。別に隠すことでもないが、説明するのも面倒だ。
「起業する前に、いろんなバイトをやってたんです」
「起業?」
「ああ、まあ小さな会社でしたけどね。今はもう売却しちゃいましたが」
香織は驚いたような顔をした。
「それで今はフリーで?」
「そんなところです」
「すごいですね。会社を売却って、なかなかできることじゃないですよね」
香織は興味深そうに俺を見た。別にすごくもなんともないんだが、普通の人にはそう見えるのかもしれない。
「ワインはお詳しいですか?」
話題を変えるように、香織が聞いてきた。
「まあ、多少は。昔、接待とかでよく飲んでたんで」
「どんなワインがお好みですか?」
「フランスのブルゴーニュが好きですね。ピノ・ノワールの繊細な味わいが」
香織の目が輝いた。
「わかります!ブルゴーニュの2015年のヴィンテージなんて最高でしたよね。あの年は天候に恵まれて、どのドメーヌも素晴らしい出来で」
お、この人結構詳しいな。
「ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティの2015年は飲んだことありますか?」
「さすがにロマネ・コンティは……値段が値段ですからね」
俺は苦笑いした。確かに、あのワインは一本数十万円する。
「でも、同じ村のヴォーヌ・ロマネの他の生産者でも、素晴らしいワインはたくさんありますよね」
「そうですね。メゾン・ルロワのヴォーヌ・ロマネなんかも絶品でした」
香織は感心したような表情を見せた。
「普通のバイトの方で、そこまでワインに詳しい人って珍しいです。どこでそんなに勉強を?」
「勉強というか、仕事で必要だったんで。接待でいいレストランに行く機会が多くて、自然と覚えました」
「なるほど……」
香織は少し考え込むような表情をした。俺の正体が気になっているのかもしれない。
その時、厨房の方から桐山シェフの手を叩く音が聞こえた。見ると、ミカが桐山シェフの前に立って、何やら手を動かしている。
「あれ、何してるんでしょうね」
香織も気づいて、二人の様子を見た。
桐山シェフが手話で何かを言うと、ミカは手話では返さない。でも、なぜか桐山シェフは理解したような顔をして頷いている。
「不思議ですね。ミカさん、手話ができるんでしょうか?」
「いや、できないはずですが……」
俺も不思議だった。ミカは手話を習ったことなんてないはずだ。でも、桐山シェフとは何かしら通じ合っているように見える。
しばらくすると、ミカが戻ってきた。
「何してたんだ?」
「……あの人と話していた」
「話すって、お前手話できるのか?」
「……言葉は必要ない。心で話せば通じる」
また抽象的な答えだ。でも、確かに桐山シェフとミカの間には、言葉を超えた何かがあるように見えた。
「すごいですね、ミカさん」
香織が感心して言った。
「桐山シェフとあんなに自然にコミュニケーションを取れる人、初めて見ました」
「昔からこんな感じなんです」
俺がそう答えると、香織は興味深そうにミカを見た。
「ミカさんって、何歳ぐらいなんですか?」
「えーと……」
実際のところ、俺にもミカの正確な年齢はわからない。見た目は高校生くらいだが。
「18歳ぐらいです」
「そうなんですね。とても落ち着いてらっしゃるから、もっと年上かと思いました」
確かに、ミカは見た目に反して妙に大人びたところがある。
午後の営業が始まると、俺はまた忙しくなった。でも、桐山シェフとの連携も昨日より良くなっている気がする。メモを見せるだけで、彼は俺の意図を理解してくれる。
ミカも相変わらず厨房の様子を見ている。時々、桐山シェフと目を合わせて、何かを確認し合っているようだった。
営業終了後、桐山シェフが俺たちに向かって手話で何かを伝えた。
「お疲れ様でした。明日もよろしくお願いしますとおっしゃっています」
香織が通訳してくれた。俺たちも挨拶を返す。
帰り支度をしていると、香織が声をかけてきた。
「土田さん、もしよろしければ、今度お時間がある時にでも、ワインの話をもっと聞かせてください」
「ああ、まあ機会があれば」
「ありがとうございます」
香織は嬉しそうに微笑んだ。
店を出てから、俺はミカに聞いてみた。
「桐山シェフと何を話してたんだ?」
「……料理について」
「料理?」
「……あの人は、食材一つ一つの声を聞いている。野菜がどんな土で育ったか、魚がどんな海で泳いでいたか、全部感じ取れる」
「そんなことが本当にわかるのか?」
「……あの人にとって、それは当たり前のこと。だから料理が美味しい」
聴覚に障害があるから、他の感覚が研ぎ澄まされているということだろうか。それとも、ミカの言う通り、本当に食材の「声」が聞こえるのか。
「お前にもそれがわかるのか?」
「……少しだけ」
ミカは空を見上げた。
「……でも、あの人ほどではない。あの人は特別」
確かに、桐山シェフの料理は特別だった。ただ美味しいだけじゃない、何か心に響くような深みがある。
「明日が最後の日だな」
「……そうだ」
「桐山シェフともお別れか」
「……」
ミカは何も答えなかったが、少し寂しそうに見えた。
三日間だけの短期バイトだが、思っていた以上に充実している。香織の俺への関心も気になるところだが、まあ悪い気はしない。
そんなことを考えながら、俺たちは夜の街を歩いて帰った。
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