エピソード4「幽霊の警告」

「矢部……さん」


樹里の声はかすかだったが、カフェ全体に響き渡るように感じられた。


矢部は震える足で立ち尽くし、ドアノブから手を離した。彼の顔は蒼白で、額には冷や汗が浮かんでいた。


「樹里ちゃん……本当に、君なのか……」


矢部の声は震えていた。有樹は二人の間に漂う言いようのない緊張感を感じながら、息をのんで見守っていた。


「10年……経ちましたね」


樹里の姿は以前よりもはっきりと見え、声も鮮明だった。彼女の目には悲しみがあったが、不思議なことに憎しみは感じられなかった。


矢部は周囲を見回した。カフェの客たちも店員たちも、全員が彼らを見つめている。彼らの姿は半透明で、幽霊であることは明らかだった。矢部は絶望的な表情で、出口のない迷路に迷い込んだかのようだった。


「僕は……」


矢部が言葉を絞り出そうとしたとき、安藤店長が静かに近づいた。


「矢部さん、逃げるのはもうやめませんか?」


店長の声は穏やかだったが、その目には厳しさがあった。


「逃げてなんか……」


「10年間、ずっと逃げてきたでしょう?樹里の死から」


店長の言葉に、カフェ内の空気がさらに重くなった。有樹は「死」という言葉に、改めて現実を突きつけられた気がした。


「僕は……知らない……」


矢部は弱々しく否定したが、その声には説得力がなかった。


「では、なぜそんなに怯えているんですか?」


今度は井上が質問した。彼女はレジカウンターに立ち、悲しそうに矢部を見ていた。


「なぜ、私たちが見えるんですか?」


続いて成瀬も現れ、静かに問いかけた。


「普通の人には、私たちは見えないはずです」


矢部は言葉に詰まり、座り込みそうになった。有樹は思わず彼を支えようと近づいた。


「席に戻りましょう」


有樹は矢部の肘を取り、窓際の席へと導いた。矢部は抵抗する力もなく、よろめきながら席に戻った。


「有樹」


ミカが静かに有樹の名を呼んだ。珍しく「名もなき者」ではなく、ちゃんと名前で呼んでいる。彼の表情には、これまで見たことのない真剣さがあった。


「私に任せて」


ミカはそう言って、矢部のテーブルに近づいた。カフェの空気が一段と張り詰め、時間が止まったかのような静けさが訪れた。


「矢部さん」


ミカの声は、いつもの無機質さとは違い、どこか温かみのある響きを持っていた。


「私は……記憶を失った天使だ。だが、境界にいるものの『真実』は見える」


矢部は驚いた表情でミカを見上げた。


「天使……?」


「あなたの心の中には、大きな罪の意識がある。それが、あなたを『境界』に近づけている」


ミカの言葉に、矢部の顔から血の気が引いた。


「あなたにはなぜ、ここにいる者たちが見えるのか……分かっているはずだ」


矢部は黙ったまま、うつむいた。その肩が小刻みに震えていた。


カフェの片隅から、樹里がゆっくりと近づいてきた。彼女の足音は聞こえないが、存在感だけははっきりと感じられた。


「矢部さん……私、あなたに聞きたいことがあります」


樹里の声は、今までで最も鮮明だった。


「あの夜……どうして止まってくれなかったんですか?」


その問いかけに、カフェ全体が凍りついたような静けさに包まれた。有樹は息をのむ。樹里の言葉が意味するものは、あまりにも明白だった。


矢部は顔を両手で覆い、肩を震わせた。


「怖かった……パニックになって……」


彼の声は掠れ、言葉が途切れ途切れになった。


「仕事のストレスで飲み過ぎて……車を運転するべきじゃなかった……」


「それで私を……」


樹里の言葉は非難めいたものではなく、ただ確認するような口調だった。


「ごめん……本当に……ごめんなさい……」


矢部の声は泣き声に変わっていた。


「あの夜以来……毎日後悔して……でも怖くて……」


安藤店長がゆっくりと近づき、静かに言った。


「彼女は、このカフェで働いていた。あなたも常連客だった。事故の日、彼女はちょうど閉店後、家に帰る途中だった……」


有樹は状況を理解し始めた。10年前、矢部は酒に酔って車を運転し、樹里をひき逃げしたのだ。そして10年間、その罪から逃げ続けてきた。


「でも、なぜカフェ全体が……」


有樹の疑問に、店長は悲しげに微笑んだ。


「このカフェは、もう実在しないんだよ」


「え……?」


「3年前に取り壊されてしまった。今ここにあるのは、樹里の記憶の中のカフェなんだ」


その言葉に、有樹は衝撃を受けた。目の前に見えるカフェ、店員たち、客たち……全てが幻だったのか。


「彼女の強い思いが、この場所を形作っている。彼女が忘れられない場所、忘れられない人々……」


店長の説明は、不思議と説得力があった。有樹は改めてカフェを見回した。確かに、どこか現実離れした美しさがあった。懐かしさと温かさに満ちた空間。それは生前の樹里が愛したカフェの姿だったのだろう。


「矢部さん……」


樹里が静かに言った。


「私は……あなたを責めているわけじゃないんです」


矢部は驚いて顔を上げた。


「でも……僕のせいで君は……」


「事故は事故です。あなたが故意にやったわけじゃない」


樹里の言葉には不思議な優しさがあった。


「ただ……逃げたこと。真実から目を背けたこと……それだけが、私の心の重荷になっていました」


樹里の姿が一瞬、より鮮明になったように見えた。


「私が『この世界』に留まっているのは……あなたに真実を伝えるためだったのかもしれません」


矢部は涙を流しながら、樹里を見つめた。


「なぜ……こんなにも優しいんだ……」


「憎むのは……疲れるから」


樹里は小さく微笑んだ。


有樹はミカを見た。彼は静かに二人を見つめていたが、その目には人間離れした知性と、深い理解が宿っていた。まるで、人間の魂の機微を全て見通しているかのようだった。


「有樹さん」


安藤店長が有樹に近づいた。


「少し休憩してきませんか?裏庭で」


「え?でもこんな大事な……」


「大丈夫。ミカさんがいるし……二人には時間が必要だと思うんだ」


有樹は少し躊躇いながらも、店長の提案に従った。確かに、矢部と樹里の間には、第三者が割り込むべきでない何かがあった。


裏庭は小さいながらも静かで、心地よい空間だった。有樹はベンチに座り、深呼吸した。今日一日の出来事は、あまりにも常識を超えていた。幽霊のカフェ、記憶の具現化、天使の同居人……全てが夢のようだった。


「不思議なものね……人の思いって」


井上の声がした。彼女は有樹の隣に座っていた。有樹は驚いたが、もう怖さは感じなかった。


「店長が言っていたこと……本当なんですか?このカフェは樹里ちゃんの記憶の中にあるものなんですか?」


「ええ。彼女の思いが強すぎて、このカフェを『形』にしてしまったの」


「でも、なぜ僕に見えるんですか?」


「あなたはミカさんと共にいるから。彼は『境界』の向こう側から来た存在……天使と言ってもいいかもしれない。彼の側にいることで、あなたも『境界』を感じられるようになったのよ」


有樹はミカのことを考えた。記憶を失った天使……彼の存在は神秘的だが、今日の出来事を経て、その不思議さにも少し納得できた気がした。


「でも、矢部さんは……」


「罪の意識が、彼を『境界』に近づけているの。死者が見える理由はそれ……彼の心が、樹里を忘れられないから」


井上の言葉に、有樹は深く考え込んだ。人の思いの強さは、時に現実さえも超えるのだろうか。


「それにしても……樹里ちゃんは矢部さんを許しているみたいですね」


「彼女はいつも優しい子だったわ。怒りよりも、悲しみの方が強かった……」


井上は遠い目をした。


「私たちスタッフは、樹里の思い出の中の人たち。彼女が大好きだったこのカフェで、共に過ごした日々の記憶……」


有樹は静かに頷いた。生前の樹里がこのカフェを心から愛していたことが伝わってきた。


しばらく静かな時間が流れた後、安藤店長が裏庭に現れた。


「有樹さん、戻りましょうか」


有樹は立ち上がり、井上に小さく頭を下げてから店内に戻った。カフェの空気は、さっきよりも幾分か軽くなっていた。


矢部はまだテーブルに座っていたが、その表情はさっきよりも穏やかになっていた。樹里は彼の向かいに座り、二人は静かに会話をしていた。


「どうするつもりだ?」


ミカが有樹の横に立ち、小声で尋ねた。


「どうするって……僕は……」


「彼の罪について」


有樹は考え込んだ。確かに、矢部はひき逃げという罪を犯している。しかし、樹里自身がすでに許しているようだった。


「それは彼自身が決めることじゃないか?」


有樹の言葉に、ミカは小さく頷いた。その目には、初めて見るような温かさが宿っていた。


「まっすぐな心……だな」


ミカの言葉に、有樹は少し照れた。ミカがこんな風に自分を評価するなんて、珍しいことだった。


カフェの中央で、矢部がゆっくりと立ち上がった。彼の表情には決意のようなものが浮かんでいた。


「皆さん……」


矢部の声は、少し震えていたが、しっかりとしていた。


「10年前、私は樹里ちゃんをひき逃げした……そして逃げ続けてきました」


カフェ中が静まり返り、全ての視線が矢部に注がれた。


「でも、もう逃げません。明日、警察に自首します」


その言葉に、カフェ全体が微かに明るくなったように感じられた。樹里の表情には安堵の色が浮かんでいた。


「本当に……?」


樹里が小さく尋ねた。


「ああ。もう、逃げるのはやめる。罪は罪として受け止める……それが、君への償いになるなら」


矢部の目には涙が浮かんでいたが、その表情は長年の重荷から解放されたように晴れやかだった。


その瞬間、不思議なことが起きた。カフェの空間全体が、微かに揺らぎ始めたのだ。天井の照明が少し明るくなり、窓からの光も強くなった。


「樹里……」


安藤店長が呼びかけた。彼の表情には寂しさと温かさが入り混じっていた。


「あなたの思いが、やっと届いたね」


樹里は小さく頷き、矢部に向き直った。


「ありがとう……これで、私も……」


彼女の言葉は途切れたが、その意味するところは明らかだった。彼女の未練が解消されつつあるのだ。


カフェの揺らぎは徐々に大きくなり、壁や床が少しずつ透明になっていくように見えた。幽霊の客たちも、一人また一人と姿が薄れていった。


「なんでしょう……さよならの時間、かしら」


井上が少し寂しそうに微笑んだ。


「また……会えるよね」


樹里は成瀬と井上に微笑みかけた。二人は温かな表情で頷いた。


「店長……みんな……ありがとう」


樹里の声は感謝に満ちていた。


有樹は目の前で起きている光景に言葉を失った。カフェ全体が、まるで溶けていくかのように、現実から離れていくようだった。


その中で、ミカだけが不思議な輝きを放っていた。彼の姿は、この世のものとは思えないほど鮮明で力強かった。まさに天使の姿。


「有樹」


ミカが静かに呼びかけた。


「彼女の思いは届いた。彼女は今、『境界』を越えようとしている」


有樹は樹里を見た。彼女の姿は明るい光に包まれ、徐々に透明になっていった。


「あの……バイト代は……」


有樹が思わず呟くと、安藤店長が優しく笑った。


「心配しないで。ちゃんとShort Worksに報告しておくよ」


その言葉に、有樹も思わず笑顔になった。こんな状況でも、なんだかんだと現実的なことを考えてしまう自分が可笑しかった。


カフェの空間はますます不安定になり、店全体がぼんやりとした光に包まれ始めた。矢部は混乱した表情で立ち尽くしていたが、樹里が彼に近づき、小さく頷いた。


「さようなら……そして、ありがとう」


樹里の最後の言葉が、かすかに響いた。


そして突然、眩しい光が広がり、有樹は思わず目を閉じた。


光が収まり、再び目を開けたとき、そこはもはやカフェではなかった。有樹とミカは空き地に立っていた。周囲には古びたフェンスがあり、かつて建物があったことを示す基礎の跡だけが残されていた。


「ここが……カフェ・ロアールがあった場所……?」


有樹は呟いた。現実に戻った感覚に、少し戸惑いを覚えた。


「そう……樹里の思いが形になっていた場所」


ミカの声には、珍しく感情が込められていた。


少し離れたところに、矢部の姿があった。彼はフェンスに手をかけ、呆然と空き地を見つめていた。


「矢部さん!」


有樹が声をかけると、矢部は驚いたように振り返った。


「君たちも……いたのか」


「ええ、全て現実でしたよ」


有樹は彼に近づいた。


「樹里ちゃんの思い……届きましたね」


矢部は静かに頷いた。彼の表情には悲しみがあったが、同時に穏やかさも浮かんでいた。


「明日、警察に行くよ……約束したからね」


「そうですね……」


「10年も逃げ続けた……でも、もう終わりにする時が来たんだ」


矢部は空き地を見つめながら言った。


「あの子が……あんなに優しく接してくれるなんて……思ってもみなかった」


「彼女は素敵な人だったんですね」


「ああ……このカフェの太陽のような存在だった」


矢部は少し微笑んだ。その表情には苦しみの中にも、一筋の光が差し込んだように見えた。


「さて……私は行くよ」


矢部は二人に軽く頭を下げ、歩き去っていった。その背中は、重荷を背負いながらも、少しだけまっすぐになったように見えた。


「彼は……自首するだろうか?」


有樹はミカに尋ねた。


「するさ……彼の心には、もう逃げ場がない」


ミカの言葉には確信があった。


「ミカ……天使って本当なんだな」


有樹は改めてミカを見た。彼は相変わらず中性的な美しさを持つ青年の姿だったが、今日の出来事を経て、その存在の特別さを否定することはもはやできなかった。


「……そうかもしれない」


ミカはいつもより柔らかい表情で答えた。その目には、かすかな光が宿っていた。


「でも、記憶がない……だから、確かなことは言えない」


「記憶か……樹里ちゃんみたいに、何か強い思いがあるのかもしれないな」


「かもしれないな……」


ミカは空を見上げた。夕暮れの空が、美しいオレンジ色に染まっていた。


「さて、帰ろうか」


有樹が言うと、ミカは無言で頷いた。二人は並んで歩き始めた。


「……アイスが食べたい」


ミカのいつもの無表情な声に、有樹は思わず笑った。


「わかったよ。帰りに買うか」


不思議な一日だった。朝、バイト先として訪れたカフェは幻だったが、そこで起きたことは確かに現実だった。幽霊、天使、人の思いの力……常識では考えられないことばかりだったが、有樹の心には不思議と納得感があった。


ミカと出会ったあの日から、彼の世界は少しずつ変わり始めていたのだから。


二人が歩み去る後ろで、空き地にほんの一瞬だけ、カフェ・ロアールの幻影が浮かび上がった。そして、微笑む樹里の姿が窓越しに見え、静かに手を振った。


だが、振り返る者は誰もいなかった。

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