エピソード3「客の正体」
カフェ・ロアールはオープンから1時間が経ち、店内は「満席」の状態だった。有樹の目には見えない客たちが次々と訪れ、テーブルには無人のはずなのに、コーヒーカップやケーキの皿が動き、フォークがケーキを切り分ける姿が見えた。
常人なら気が狂いそうな光景だが、有樹はなんとか平静を装い、接客を続けていた。
「これが幽霊か……」
有樹は小声でつぶやきながら、コーヒーカップを空のように見えるテーブルに置いた。するとカップが宙に浮き、誰かが飲んでいるような動きをした。有樹は一瞬たじろいだが、それも今日何度目かというほど見慣れた光景だった。
唯一の「見える」客である矢部は、窓際の席でコーヒーを飲みながら、静かにカフェの内部を観察していた。彼の目には、動くカップや皿の姿が映っているのだろう。しかし、不思議なことに彼は特に驚いた様子もなく、むしろ懐かしむような表情でそれらを見つめていた。
「慣れてるみたいだな……」
有樹は矢部の様子を横目で見ながら思った。ミカの警告が気になりつつも、仕事としては彼も客の一人だ。有樹は新しいコーヒーを淹れ、矢部のテーブルに向かった。
「お替わりはいかがですか?」
「ありがとう。もう一杯もらおうかな」
矢部は穏やかに微笑んだ。その表情には疲れは見えるものの、どこか安堵の色が浮かんでいた。
「このカフェ、変わってないね」
矢部はふと言った。有樹は立ち止まり、思わず聞き返した。
「お客さんは、このカフェのことをよくご存じなんですか?」
「ああ、10年以上前から知ってる。当時はよく通っていたんだ。でも、しばらく……来られなくなってね」
矢部はそう言って、少し遠い目をした。有樹は「10年前」という言葉に、再び樹里のことを思い出した。
「そろそろランチの準備だよ」
背後から安藤店長の声がした。彼は笑顔で有樹の肩に手を置いた。その手は、妙に冷たかった。
「あ、はい」
有樹はキッチンに向かった。成瀬は黙々と料理の準備をしていたが、その動きには不思議な流れるような滑らかさがあった。人間離れした動きとも言えるほどだ。
「料理、手伝います」
ミカの声に振り返ると、彼は既にエプロンを締め直していた。
「お前、料理できるのか?」
有樹は疑わしげに尋ねた。ミカはただ無言で頷き、成瀬の横に立った。二人はまるで長年の仲間のように、言葉を交わさずとも息の合った動きでサンドイッチやキッシュを作り始めた。
有樹はその光景に少し驚いた。ミカの手さばきは素早く正確で、まるで長年の経験があるかのようだった。記憶を失ったはずなのに、体が覚えているのだろうか。
「ねえ、有樹さん」
井上が電話から手を離し、有樹に声をかけた。今日初めて、彼女が電話以外の対応をするのを見た気がした。
「あの人……矢部さん、気を付けた方がいいわよ」
「え?」
「私たちには分かるの……彼と樹里ちゃんのこと」
井上の目に、一瞬、異様な光が宿ったように見えた。
「どういう意味ですか?」
「私たちはみんな、同じ『境界』にいるの。でも彼だけは違う……」
彼女の言葉は謎めいていたが、有樹の質問に答える前に、電話が鳴り、再び受話器を取った。
有樹は混乱しながらホールに戻った。店内は相変わらず「満席」で、見えないお客たちがくつろいでいる様子だった。矢部はまだ窓際の席に座り、外を眺めていた。その表情には、どこか切なさが混ざっていた。
「どうしたの?」
ミカがサンドイッチの盛り合わせを持って現れた。
「井上さんが、矢部さんと樹里ちゃんのことを言ってたんだけど……」
「知っている。彼は……特別だ」
ミカは静かに言った。その瞳には、有樹が今まで見たことのない静かな悲しみのようなものが宿っていた。
「特別って……どういう意味だ?」
「彼だけが『生きている』。他の客たちは皆、既に……」
「死んでるってことか?」
有樹は声を潜めて尋ねた。ミカは無言で頷いた。
「じゃあ、本当に幽霊のカフェってことなのか……」
有樹はサンドイッチの盛り合わせを受け取り、テーブルに配り始めた。確かに客たちは「普通」ではなかったが、別に恐ろしげな存在にも見えない。ただコーヒーを飲み、ケーキを食べ、静かに会話を楽しんでいるようだった。
一つのテーブルに近づいたとき、有樹は不思議な感覚に襲われた。そこに座っている「誰か」の姿が、一瞬だけ透けるように見えたのだ。老紳士のような姿で、微笑みながらティーカップを持っている。しかし、目を瞬きするとその姿は消え、ただカップが宙に浮いているだけに見えた。
「お、お召し上がりください」
有樹は思わず声をかけた。するとサンドイッチの皿が少し動き、「いただきます」という声が、かすかに聞こえたような気がした。
別のテーブルでも同じようなことが起こった。有樹の目に、わずかに客の姿が見え始めていたのだ。若い女性のカップル、家族連れ、一人で本を読む中年女性……それらの姿は半透明で、光の加減で見えたり見えなかったりした。
「なんだ……これは……」
有樹は自分の目を疑った。先ほどまでは全く見えなかった客たちが、今は薄ぼんやりと認識できる。
「見えるようになったね」
安藤店長が有樹の横に立ち、優しく言った。
「店長……あの、これは一体……」
「このカフェは特別なんだ。生きている人と死んだ人が交わる場所。普通の人には見えないけど、特別な『感覚』を持つ人なら、時間が経つと彼らが見えてくる」
店長の説明は穏やかだったが、有樹の頭の中はパニック状態だった。
「でも、なぜ僕に……」
「君もまた『境界』に近い人なんだよ。そうでなければ、ミカさんのような存在と出会うことはなかっただろう」
店長の言葉に、有樹は思わずミカを探した。彼は矢部のテーブルの近くで、じっと彼を観察していた。
「ミカさんは……天使だよね?」
安藤店長の質問に、有樹は驚いて彼を見た。
「どうして……」
「私たちにも分かるんだ。彼は『境界』の向こう側から来た存在だってね」
その言葉に、有樹はますます混乱した。天使、境界、幽霊……一日のバイトのつもりが、とんでもない状況に巻き込まれている。
「すみません、店長。もう少し詳しく説明してもらえませんか?」
「もちろん。でも、その前に……」
店長の言葉が途切れたとき、店内の空気が急に変わった。透けて見えていた客たちの姿が、一瞬鮮明になり、次の瞬間には完全に消えた。テーブルの上のカップや皿だけが残された状態だ。
「何が……」
混乱する有樹の目の前で、一人の少女の姿がうっすらと現れた。制服姿の、カフェのエプロンを付けた少女。写真で見た樹里だ。
彼女はサンドイッチの盛り合わせを持ち、フロアを歩いていた。その姿は半透明で、時折視界から消えそうになるが、確かにそこにいた。
「樹里……ちゃん?」
有樹の言葉に、少女は振り返った。彼女の目は悲しみに満ちていたが、優しい微笑みを浮かべていた。
「あなたには見えるんですね……久しぶり……生きている人に見てもらえるのは」
樹里の声は風のようにかすかだったが、確かに聞こえた。
「え、ええ……」
有樹は言葉に詰まった。幽霊と会話するなんて、人生で初めての経験だ。
「あの人……」
樹里は矢部の方を見た。その目に一瞬、何かが閃いた。
「あの人を……」
その言葉の続きを聞く前に、別のテーブルから「オーダー」の声がした。樹里はすぐに仕事モードに戻り、有樹に小さく頷いてから消えるように去った。
有樹は複雑な気持ちで立ち尽くした。確かに目の前で起きたことは常識を超えているが、不思議と恐怖は薄れていた。むしろ、このカフェの秘密を知りたいという好奇心が湧いてきた。
ふと気づくと、ミカがじっと自分を見ていた。彼の表情には珍しく、心配のような感情が浮かんでいた。
「大丈夫か?」
彼は小さく尋ねた。
「ああ……なんとか。でも、すごいな、ここ」
「特別な場所だ。だが……」
ミカの視線が矢部に向いた。
「彼について……何か知っておくべきことがある」
「どうして?彼は何者なんだ?」
「まだ……確信は持てない。しかし、彼と樹里の間には何かがある」
ミカはそう言って、再びキッチンに向かった。有樹は矢部を見た。彼は静かにコーヒーを飲みながら、時々窓の外を見ていた。一見すると普通のビジネスマンだが、このカフェの「特別」な状況を考えると、彼もまた何か特別な存在なのかもしれない。
午後のピークタイムになり、有樹は忙しく働いていた。見えない客たちへの接客にも少しずつ慣れ、時々チラリと見える彼らの姿に驚くこともなくなってきた。
「あの、すみません……」
矢部が有樹を呼んだ。近づくと、彼は少し困ったような表情を浮かべていた。
「トイレはどちらでしょうか?」
「ああ、奥の廊下を右に行った先です」
「ありがとう」
矢部が席を立ち、トイレに向かう姿を見送りながら、有樹は不思議な感覚を覚えた。彼だけが「生きている」客だと言うが、果たして本当にそうなのだろうか?そして、彼と樹里の間には、いったい何があったのか?
有樹が考え込んでいるとき、店内の空気が再び変わった。今度は、全ての客の姿が一斉に鮮明になり、有樹の目にはっきりと見えるようになった。老若男女、様々な客たちが、静かに談笑している。彼らは皆、どこか透明感のある姿で、光が差し込むと少し透けて見えた。
そして、樹里の姿も完全に見えるようになった。彼女はキッチンとフロアを行き来し、プロのように接客をしていた。時々、有樹の方をチラリと見て、小さく微笑む。
「彼らは皆、思い出の中の客たち」
安藤店長が有樹の横に立ち、静かに言った。
「思い出?」
「ええ、樹里の記憶の中にいる人たち。彼女が生きていた頃に、このカフェで出会った人たちさ」
「じゃあ、あなたも……」
有樹の質問に、店長はただ微笑んだ。その姿も、他の客たちと同じように少し透けて見えた。
「私たちはみんな、樹里と共にこのカフェにいるんだ。彼女が忘れられないから……」
有樹は言葉を失った。目の前の光景は確かに幻想的だが、その奥に隠された真実は悲しいものだった。
「店長さん……どうして樹里ちゃんは……」
「それは……」
店長の言葉が途切れたとき、トイレから戻ってきた矢部が店内を見回して立ち止まった。彼の顔には、明らかな動揺が浮かんでいた。まるで、今の有樹と同じように、客たちの姿が見えているかのようだ。
「あ……」
矢部の口から小さな声が漏れた。その目は恐怖と罪悪感が入り混じったような複雑な感情で見開かれ、顔は蒼白になっていた。
「彼には、私たちが見えている」
安藤店長は静かに言った。
「なぜ?」
「彼もまた『特別』だからさ」
店長の言葉の意味を考える暇もなく、有樹は矢部がよろめくように席に戻るのを見た。彼は震える手でコーヒーカップを掴み、必死に現実に縋りつくような仕草だった。
「大丈夫ですか?」
有樹が声をかけると、矢部は無理に笑顔を作って頷いた。
「あ、ああ……ちょっと、めまいが……」
しかし、その目は店内を見回し、透けた姿の客たちを見るたびに恐怖に見開かれた。矢部の額には冷や汗が浮かび、手の震えは止まらなかった。
「お、お会計を……」
矢部は財布を取り出し、お金を出そうとした。その様子はまるで、逃げ出したいという思いが丸見えだった。
有樹はミカを探した。彼はカウンター近くに立ち、じっと矢部を見つめていた。その目には、これまでにない厳しさが宿っていた。
矢部はお金を置くと、急いで立ち上がり、出口に向かった。しかし、ドアに手をかけた瞬間、カフェ全体の空気が凍りついたように変わった。
矢部の前に、樹里の姿がはっきりと現れたのだ。
「矢部……さん」
彼女の声は、カフェ全体に響き渡るように感じられた。
矢部は足を止め、震えながら樹里を見つめた。その目には、恐怖と共に、言いようのない悲しみと後悔の色が浮かんでいた。
「樹……里ちゃん……」
彼の声はかすかだったが、その言葉に込められた感情は強烈だった。
有樹は息をのみながら、この緊迫した場面を見つめていた。カフェの真実と、矢部と樹里の関係の謎が、今まさに明らかになろうとしていた。
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