第32話 最後の詠唱

 夕暮れの帝都は、灰と薄紫が交じり合う空の下、ゆっくりと夜の帳を下ろしつつあった。旧街道沿いの小さな食堂。その建物の裏手にある路地には、すでに人気がなく、鉄製の非常階段が風で軋む音だけが時折、微かに響いていた。


 リィエンの足音は静かだった。裏路地に、その細い影がふわりと現れる。彼女は立ち止まり、あたりを見渡した。誰の気配もないことを確かめるように一歩を踏み出すと、風が吹き抜け、銀灰の髪を揺らす。


 ──視線の先に、カイがいた。軍服の上に外套を羽織り、壁にもたれて腕を組み、静かに俯いている。薄暮の中、その姿はどこか影のように沈んで見えた。


「……お久しぶりですね」


 リィエンの声は小さかったが、その澄んだ声は空気を震わせるほどの余韻を持っていた。


 カイは懐に手を入れたが、一瞬だけ、指先が内ポケットの中の封筒で止まった。わずかに目を伏せると、小さく息を吸い、そして、決意を込めてその封筒を取り出した。それは薄い羊皮紙に包まれており、翡翠色の細い紐で結ばれていた。


「渡したいものがあるんです。見ていただけませんか?」


 リィエンは封筒を受け取り、中の紙を広げると、驚いたように眉をわずかに上げた。


「これは……詠唱? 祖語じゃないけれど」


 カイは首を振る。視線をまっすぐ彼女に向けたまま、静かに言った。


「もう言葉は問題じゃない。構文でも音韻でもない。ただ、思いだけで十分なんだ。君の中にあるものを、この言葉に込めて、詠ってほしい」


 リィエンはしばらく黙って紙を見つめた。風がひと吹き、ふたりの間を抜けた。


「……この日、この時に?」


 カイは頷く。


「この日、帝国の実験と、王国の実験が同時に始まる。その瞬間に、君の詠唱が必要だ」


 沈黙が続く。夕闇が濃くなり、ふたりの姿を次第に塗り潰していく。


「スィリナティアは氏族の名」


 リィエンがふと、低く呟いた。


「私のことは、リィエンと呼んで」


 カイは驚いたように一瞬、目を見開き、そして小さく笑った。


「なら、俺のことはカイと呼んでくれ」


 カイは、そう応え、少しだけ照れたように眉を上げた。ふたりの目が交錯する。リィエンが微かに微笑んだ。その刹那、何かが静かに、確かに通じ合った。


 リィエンは歩み寄ることなく、その場で小さく頷き、くるりと背を向けた。カイも、それを追うことはしなかった。夜の闇に溶けていくリィエンの後ろ姿を、ただ見つめていた。



  ◇ ◇ ◇



 実験前夜、第三試験棟。周囲の工区はすでに静まり返り、誰の足音すらも聞こえない。だが、棟の中では一室だけ、かすかな灯りが漏れていた。


 実験室。カイはひとり、その部屋の中央に立っていた。目の前には、明日に備えて実験槽の中に設置された第3世代宝珠──意味推論機構を導入した、最初の実験機が、静かに眠っていた。


 カイは制御卓に手を伸ばし、スイッチに触れる。その瞬間、指先がわずかに震えていた。だが迷いはなかった。淡く光るパネルに反射する彼の表情は、静かだが強かった。制御卓が起動すると、演算装置が微かに唸りを上げ、作動を開始する。

 彼は画面に現れた警告表示を確認しながら、静かにコードを入力する。──対干渉機構、バイパス設定。これで、機構は作動しながらも実際には処理を行わず、事実上無効化することになる。


(……けれど、必要なんだ)


 信じるということ。誰かの思いを、真正面から受け止め、それにすべてを託すということ。


 ──明日、彼女が詠う。──あの言葉を、自分の意味で。


 カイはゆっくりと制御卓の椅子に座り、静かに天井を仰いだ。 試験棟の天井灯が、白く、冷たく輝いている。


 思いは、果たして届くのか。言葉は、本当に祈りに変わるのか。


 そうであることを、ただ静かに願いながら──



 夜も更け、宿舎に戻ったカイは、手帳を見つめていた。そして、白紙の頁にペンを走らせる。


 ──実験を終えた私へ

 この頁がもし残っているならば、必ず読んでほしい。私が今回開発していた宝珠が、本当は兵器であったことと、その開発の経緯。そして、意味推論機構の懸念すべき点を、以下に記しておく──


 もしかすると、明日の今頃には、自分も真実を忘れているかもしれない。しかし、手帳に滲んだ翡翠色の筆跡は、残ってくれるかもしれない。


 書き終えた最後の行を見つめながら、カイはペンを握ったまま、しばらく手を動かさなかった。まるで、すべてが薄れていく前に、文字のひとつひとつを記憶に刻もうとしているかのようだった。

 そしてカイは、静かにペンを置き、目を伏せ、長い息を吐いた。


 実験が──いよいよ始まる。

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