第31話 祈りの夜

 深夜。兵器局本部、三階の執務室には、まだ一つだけ灯りが残っていた。


 書類の山と演算記録の束。そして、使いかけのインク瓶と羽ペン。カイは机に肘をつき、窓の外を静かに見下ろしていた。


 帝都中央、政庁区と工区に挟まれたこの一角からは、さすがに市街全体を一望することはできない。それでも、建物の谷間から覗く夜の光──電灯と魔導灯が混じる淡い照り返しが、街の息遣いを伝えてくる。


 先日の幕僚会議で『意味推論機構』の導入が、条件付きであるが承認された。導入実証実験も、王国の実験と同時刻に行うという。

 課長から会議の内容は概ね聞かされた。意図せね暴走や、現場からの練度面での懸念、王国との関係。会議は紛糾したらしい。


 カイは机の上に広げた手記を見つめた。リィエンから託されたカスティオの遺稿。その上に、自ら構築した語意演算構造や、ウルバイン少佐の言葉が重くのしかかる。


 ──これは、神に委ねた兵器に成り得るのではありませんか。


 詠唱者の「意味」によって即時に構築される術式。定義すら不要なその柔軟性は、同時に制御の不可能性を孕んでいた。実験は成功している。しかし、意味をどう「補完」するのか、その過程は曖昧で、再現性は常にブラックボックスを通じている。


 そして、ラキネル少将の言葉。


 ──意味を扱うというのは、すなわち思想を扱うということになる。


 思想──それは、軍の技術者にとって最も危険な領域だった。思想は言葉を変質させ、言葉は術式を発動させる。ならば、無意識の感情ひとつで、誰かが命を奪うかもしれない。


 軍属技官として宝珠開発に携わっている以上、その宝珠が兵器に組み込まれているという覚悟と責任はあるつもりだ。しかし、これは、意思なき思いで人を殺せるかもしれない──そのとき、誰が責任を取るのか。


(……しかし、自分が降りたところで、誰かが引き継ぐ)


 カイは静かに拳を握った。


(だったら、自分がやるべきだ。最後まで見届ける責任がある)


『定義とは、存在そのものの枠組みである──』

『概念さえも再定義できるということを突き詰めると、最終的には人々の思念すらも再定義できるのでは?』


 カスティオの言葉が浮かぶ。


 ──定義。


 ──概念の再定義を行う。


 リィエンなら、できるかもしれない。思いを確実に伝え、意味を、兵器から解き放つことが。


 カイは、机の隅に置かれた翡翠色のインク瓶を手に取った。リィエンが渡してくれたもの。半透明の緑が、灯りに揺れて微かにきらめいた。

 ペンを取った指先が、わずかに止まる。ほんの一言を綴るだけなのに、その先にあるすべてを預けるような気がして──筆先が紙に触れる瞬間に、胸の奥で何かがかすかに軋んだ。


 これは、ただの通信ではない。技術ではない。──思いを預ける行為だ。

 

 やがて、静かにペンが動き出す。


 ──明日の夕暮れ、例の食堂の裏で会いたい。


 それだけを、淡い緑のインクで記した。ペンを置くと、カイは目を伏せ、リィエンから教わった言葉を詠んだ。


「フェル=アリヤ・ノリヴェン・リィエン──」


 インクが静かに蒸発し、文字が淡く宙に舞う。マナの振動が空間を震わせ、やがてその痕跡ごと、風に紛れるように消えた。


 ──伝わった。そう確信できた。


 深く息を吐き、カイは背もたれに身を預ける。上着の襟を緩め、手帳を膝に置いたまま、天井を仰ぐ。


 ──リィエンに、詠ってもらいたい言葉がある。


 カイは静かに、詠唱の草案を綴り始めた。声に出さず、ただ思考の中で。



 ──わたしは知っている。


 炎は、焼くためでなく、灯すためにある。

 風は、断つためでなく、運ぶためにある。

 水は、溺れさせるためでなく、潤すためにある。

 大地は、閉ざすためでなく、支えるためにある。

 

 ならば──この力もまた、誰かを傷つけるためではなく、

 世界を繋ぎ、明日を育てるために在れ。


 わたしの言葉に、わたしの願いを込めて。

 わたしの願いに、わたしの意味を宿して。


 世界の理を、今ここに──新たに定めたまえ。



 ──語を継ぎながら、カイはゆっくりと立ち上がる。窓際に歩み寄り、曇った硝子を開け放った。夜風が吹き抜ける。都市の気配が、その風に乗って入り込んでくる。     

 灯り、振動、生活のざわめき。これこそが、自分たちが守るべきものだ。誰かの「思い」が届く場所、誰かの「意味」が生まれる場所。


 破壊ではなく、継続のために。兵器ではなく、祈りの器として。


 カイは、夜の街に向かってそっと呟いた。


「……彼女なら、きっと、詠ってくれる」

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