第5章
第27話 意味の網
執務室で、カイは、机の上に広げられた手記をじっと見つめていた。手記の表紙には、褪せたインクで「C.イルナス」と記されている。
──カスティオ・イルナス。
王国の魔法語協会で先駆的な研究を行い、数十年前、志半ばでその生涯を終えた学者。リィエンは、その遺稿ともいうべき手記を自分に託した。
「言葉は、ただの記号ではない」
その一節に、カイは深い衝撃を受けた。音韻の羅列でもなく、構文の集合でもない。言葉が意味を孕み、意味がマナの在り方を規定する。もしそれが真実ならば、帝国の魔導技術は根本から見直されねばならない。
──音は、意味に従う。
──意味は、存在を定義する。
カスティオはそう記していた。だが、それは抽象的すぎて、従来の工学的アプローチでは解せない。
カイは椅子から立ち上がり、本棚に並べていた祖語関連の資料群を次々に引き出しては机上に並べた。文献、辞典、構文集、民間伝承……。これまで可能な限り収集したものだ。これでも足りないとは思う。だが、それでも前に進むしかない。
「辞書照合だけでは、あの共鳴は再現できない」
リィエンの声が耳の奥に甦る。あの時の詠唱は、意味が流れ、マナが共鳴した。単語と構文の一致だけではなく、彼女が抱いた〝意味〟そのものが、マナに作用したのだ。
カイはノートを開き、試しに一つの祖語句を書き出す。
「〝セリファ〟──風、呼吸、意志、あるいは始まり……」
単語一つに対し、複数の意味領域が重なっている。それらの領域と同じ意味を持つ単語を書き、さらにその単語が持つ意味領域を書き出す。それらの単語を線で繋げていくと、やがて紙面の上は、まるで網目のように絡み合い、意味の紋様を形成していった。それは意味場の網、すなわち『語意網』──語の意味的な広がりを可視化するための構造体だ。
「これが、〝マナに伝わる意味〟かもしれない」
単なる音韻ではなく、語彙間の連関と構文パターン、それに話者の意図が加わったとき、初めてマナがその波形に共鳴する。そう仮定した上で、カイは手元の宝珠制御回路に小型の演算装置を組み込む。
手記の一部には、カスティオが王国で実験的に使っていた「意図予測モデル」についての断片的な記述があった。それは、詠唱の入力から導かれる「到達すべき意味状態」を推測し、それに合致するマナ誘導を行うというものだった。
カイはこれを基に、既存の祖語辞書と『語意網』を接続し、疑似的な意味推論演算式を作成する。さらには、音韻の周波数解析、構文構造の定型化、共起語の頻度パターン、そして各語句同士の関連度──これらをパラメータとして重み付けし、詠唱の語義的傾向を数値的にモデル化する。つまり、語意網を静的な辞書構造ではなく、入力文脈に応じて重みが変化する動的な演算網として再定義した。
この構造により、語句単位の意味ではなく、詠唱全体が持つ文脈的な意味状態を浮かび上がらせることが可能となる。
・詠唱文を形態素に分解
・構文パターンと語義から『語意網』上の到達点を予測
・その意味と連動した術式を起動
これらを並列処理化し、詠唱の実行時にリアルタイムで適用、元の詠唱が持つ意味を〝補完〟し、マナの振る舞いそのものを指し示す意味を導き出す。
「……意味推論機構」
思わず呟いた。まさしく、これは詠唱に込められた意味を機械的に〝推論〟し、マナに伝えるための装置だ。
テスト用に、以前リィエンが用いた簡易詠唱の一部を入力してみる。
「エル=ノスタ フェルディアン……」
宝珠がわずかに光を放つ。空気が震え、机の上の紙が微かに浮かび上がる。
「……成功……した、のか?」
カイは驚きと困惑を同時に味わった。音韻照合だけでは起こり得なかった反応。それが、今目の前で現実になっていた。
彼は、徐々に湧き上がる高揚感と、はやる気持ちを抑え、演算記録を確認した。意味推論機構が、詠唱から最終的に〝紙の上下のマナ濃度を変化させ、おそらく浮力のようなものを発生させる〟というような意味を導き出していたことを確認する。『語意網』は何層にも渡り複雑に入り組んでおり、もはや人の理解を超えた経路で、その意味を導き出しているようだった。
しかし、それがマナ誘導に変換され、最小限のマナ操作として現象化されたのだ。
「意味は、力を持つ」
誰かの声のように、それは彼の内側で囁いた。
リィエンの詠唱、カスティオの手記、そして今、自分の手によって形を得たこの機構。彼はふと、ある未来図を思い描いた。もし、この意味推論機構を実装した宝珠が実用化されれば──詠唱者の意図を、より精緻に、より柔軟にマナへ伝達できる。
言葉は、ただの起動装置ではない。言葉は、マナの文法であり、意味の器だ。
カイはノートの余白に、大きくその名を書き記した。
『意味推論機構』
夜はまだ更けていたが、彼の眼差しはひときわ冴えていた。
手記の最後の数ページは、カスティオが晩年に設計しようとした新たな詠唱形式の試案──未完の草稿らしかった。そこには、王国式とは異なる曲線を多用した──まるで修道院跡地で見たような魔法陣、そして『語意共鳴式』という語句が記されていた。
「共鳴……意味同士が、互いに作用し合うということか?」
その図式は、単語単位ではなく〝意味単位〟で結ばれていた。まるで語句や構文すら超えて、概念同士を直結させるような構造だった。
「この先にあるのは、詠唱という形すら再定義される未来かもしれない」
今はまだ曖昧な輪郭だ。だが確かに、自分たちはその入口に立っている。
静かな夜の帳のなかで、カイはもう一度ペンを走らせる。だがその前に、手記の最後のページに目を通した。そこにはしっかりとした筆跡で、こう記されていた。
『これはあくまでも想像だが、概念さえも再定義できるということを突き詰めると、最終的には人々の思念すらも再定義できるのでは? もしそうであれば、それはまさに〝神の御業〟といえよう』
ページの余白は、その一文だけを残して白かった。
カイはゆっくりと手記を閉じる。そして、深く息を吐き、あらためてノートにペンを走らせた。
──語意網共鳴モデル・試験計画案──
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