第26話 再会の光

「……スィリナティアさん?」


 その名を呼んだ声は、黄昏時の路地裏を抜ける風の音に、わずかに触れるだけだった。


 リィエンはすぐには顔を上げなかった。だが、ゆっくりとした動作でこちらに身を向けると、静かに頷いた。


「……お久しぶり、ですね。ヴェルティア中尉」


「帝都に戻っていたとは、知りませんでした」


 やや硬い声で言ったカイに、リィエンは苦笑とも、戸惑いともつかぬ表情を浮かべる。


「誰にも知らせず来たの。そうせざるを得なかったから」


「〝誰にも〟とは……」


 リィエンはわずかに視線を逸らし、あたりを警戒するように一瞥したのち、声を潜める。


「追われているの。私を見失った〝誰か〟が、ここまで手を伸ばしてくるとは思わなかったけど……」


 その言葉に、カイは言い淀んだ。すぐに詰問すべきではないと頭では理解しながらも、胸の中には問いが渦巻いていた。


「スィリナティアさん……本当に、王国の──」


「……ちがう」


 リィエンはかぶせるように否定した。彼女の声は低く、けれど確かな熱を帯びていた。


「私は、王国とは関係ない、本当よ。ただの自治領からの交流研究員……本当に、それだけ」


 風が吹き、銀灰の髪が揺れる。街灯の明かりが届かない裏路地で、リィエンの顔は闇に沈んでいたが、その声は不思議と真っ直ぐに届いてきた。


「……俺は、君の詠唱を聞いてから、ずっと考えていた。どうして、あの言葉が宝珠に作用したのか」


 カイが口にすると、リィエンの表情がわずかに緩む。


「……嬉しい。あの時、あなたがそう感じてくれていたこと、私には分かってた。あなたは、きっと言葉の意味に耳を澄ませる人だと思ってたから」


 しばしの沈黙。


 カイは深く息を吐いた。


「なぜ、今になって連絡を?」


「もう一度、話したかったの。あなたとなら、言葉の奥にある〝構造〟を共有できるかもしれない、そう思ったの。だから……」


 リィエンは包みを取り出し、厚手の手帳をカイに差し出した。


「これは、カスティオの手記。……彼が晩年に書き綴っていた理論の断片。すべてを読んで理解できたわけじゃないけど、私は……この構造が、何を目指していたかは〝分かる〟の」


「カスティオとは──?」


 カイが眉を寄せると、リィエンは、ふと表情を曇らせながら言った。


「カスティオ・イルナス。──あなたは知らないでしょうね。数十年前に、王国の魔法語協会に在籍していた研究者」


「初めて聞く名です」


「そうね……彼の名前は、王国の記録からほとんど消されている。でも、私は──彼と、かつて言葉を交わしたことがある。……まだ彼が、理論家になる前。詠唱の響きに心を震わせていた、若い語り手だった頃に」


 風が通り過ぎる。銀灰の髪が揺れた。


「私は彼の詠唱に可能性を感じて、協会に推薦した。けれど……それが、彼を孤独な研究と、封殺の道へと導いたのかもしれない」


 カイは何も言わず、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。


「最近になって──偶然、彼の手記を見つけたの。彼が晩年に残した理論の断片。読んで……私は、衝撃を受けた。あれほどの構造を、あの頃の彼が、一人で積み上げていたなんて。……私は何も知らなかった」


 カイは黙って受け取る。頁を一枚めくると、整然とした構文と、時折乱れる筆跡が目に入った。


『……そのような演算補助の機構が存在しない現状では、これ以上の詠唱および構文拡張は危険領域に入る。誤定義は崩壊を招く……』


 カイは静かに息をのんだ。


「……補助演算装置」


 リィエンが彼の反応を見守る。


「この理論……定義構造を多層的に操作するには、膨大な演算が必要になる。単語や呪文として発せられる〝詠唱〟は、その構造全体を一瞬で指し示すものであって……でも、その裏側では、とてつもない数の意味的処理が必要……」


 カイは暗がりの中、文字を指で追いながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「いま俺たちが扱っている宝珠制御技術──高位干渉補正、連続位相制御、マナ軌道演算……これなら、それを再現できるかもしれない。彼が夢見て、手が届かなかった領域に、〝技術〟で手を伸ばせる」


 リィエンはそっと微笑んだ。


「……それを、あなたに伝えたかった。私には、この手帳のすべてを読み解く力はない。けれど、感じ取ることはできる。この理論がただの思想じゃないって。音の背後にある構造の、確かな手触りを」


「……でも、私にはそれを現実に形づくる術がない。だから、託すの。あなたに──〝言葉と技を併せ持つ人〟に」


 カイは深く頷いた。


 リィエンはもうひとつ、小さな包みを取り出した。翡翠色のガラス瓶だった。


「……これも、受け取って」


 淡く仄かな光を帯びた瓶は、エルフの術式用の通信具だった。中には薄緑のインクが揺れている。


「これは、エルフが連絡術に使うものよ。……何かあったら、これで手紙を書いて」


「手紙を? どこへ?」


「そのまま綴って、〝こう〟詠んで」


 リィエンは静かに、心からの声で詠唱を唱える。


「フェル=アリヤ・ノリヴェン・リィエン──時を越えて、名のもとに紡がれし言の葉よ、風の路を辿りて届きたまえ」


 瓶の中のインクが、かすかに光を放つ。


「これで、私のもとに届く。どこにいても。たとえ時間が空いても。……もし、続きを伝えたいと思ったら、それだけでいい」


 カイは翡翠の瓶を受け取り、静かに頷いた。


「……必ず、使います」


 風がふたりの間を吹き抜ける。遠くで鐘が鳴った。


 リィエンはそっと空を仰ぐ。


「きっと、続きをつくれる。彼が見た光景の、その先を──あなたとなら」


 翡翠の瓶が、届かぬはずの街灯の光を映した気がした。

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