第25話 食堂裏の再会
朝から兵器局本部では、落ち着かぬ空気が流れていた。皆、ただ一つの事実──帰郷したはずの前任の交流研究員、スィリナティア女史が、何故か帝都にて所在不明となったこと──を無言で共有していた。
朝、課長室に呼ばれたカイは、ウルバイン少佐から、淡々とその事実を告げられた。
(どういうことだ……?)
声こそ出さなかったが、カイの背筋はわずかに揺れた。カイの表情に気づいたのか、あるいは予定していた通りなのか、ウルバインは続けた。
「詳細は聞いていない。ただ昨夜、帝都にて滞在していた宿を離れ、以後の所在が不明となっている」
カイは言葉を失った。
「貴官に調査命令は下らない。局長からは、例の理論研究を優先せよとの指示だ」
それだけ言うと、ウルバインは再び手元の資料整理を始めた。眉間に深い皺を刻みながらも、先ほどの視線はどこか気遣うようでもあった。
「了解致しました」
敬礼し、部屋を辞したカイは、自室へ戻ると椅子にも座らず机の上を見やった。机の上に置かれていたのは、一通の白い封筒──見覚えのないものだった。
差出人の記名もなく、封蝋もされていない。部下の誰かが持ってきたのか──そう思いかけたが、封筒から微かな魔力の揺らぎを感じ取り、呼び止めるのをやめた。
カイは慎重に封を切った。中には白紙の便箋が一枚。
その紙片を手に取った瞬間、インクも何もないその面に、淡く翡翠色に光る文字が浮かび上がった。
──明日の夕暮れ、例の食堂の裏で待っています。あのときと同じ、街道沿いの小さな店です。
──リィエン・スィリナティア
名前の筆致は、かつて見たどの署名よりも柔らかく、どこかためらいがあった。カイは一瞬息を止め、紙を握り締めそうになった手をゆっくりと開いた。
彼女がなぜこの手段を使ったか、その意図はすぐに察せられた。これが詠唱により魔力を潜ませた「隠し書き」であることは明白だったし、それは情報局の目を欺くための知恵でもあった。
──なぜ、この場所なのか。
兵器局本部と第三試験棟を繋ぐ旧街道、ちょうどその中間あたりの駅馬車の停留所から少し歩いた所に、その食堂はあった。少し時間に余裕がある時は、技官が行き来のついでに昼食をとったりしており、カイもたまに寄ることがある。
かつて、第三試験棟から戻る馬車の途中で、たまたま空き時間ができたとき、同僚数名と立ち寄った。記憶の中のリィエンは、そのとき端の席で静かにスープを口にしていた。
ただの偶然か──それとも、あの日の光景を、彼女は覚えていたのか。
◇ ◇ ◇
翌日、夕方。
カイは第三試験棟での実験を早めに切り上げると、馬車に乗り込んだ。兵器局本部へ戻る路線、途中にある旧街道沿いの停留所で降りるつもりだった。
馬車は揺れながら帝都郊外の夕景を抜けていく。街の外縁部に位置する工区から中央へ向かう路線は、徐々に賑やかさを増していく。工房の煙突、魔導灯の灯り、すれ違う荷馬車。
だが、カイの視線は風景の向こうに漂っていた。
(これは、命令違反ではない)
そう自分に言い聞かせても、胸の内には奇妙な緊張が渦巻いていた。
リィエンが本当に王国の工作員であるならば、これからの密会は──密告と取られてもおかしくない。
だが、それでも彼女は手紙を託してきた。あの淡く光る筆跡は、どんな偽装でもない、彼女自身の言葉だった。
それを、信じたかった。
馬車が停留所に到着すると、カイは静かに降り立った。同乗していた士官がカイの方をちらりと見たが、また手元の本に視線を戻した。
陽は既に落ちかけ、空には橙と群青が混じる。
街道沿いに並ぶ古い家屋や商店の一角、控えめな看板を掲げた食堂の明かりが、路地に温かな色を落としていた。
一歩、また一歩と裏手へと進む。足音が石畳に吸い込まれるように響く。
その先に──人影があった。
こちらに気がついたのか、フードを取る。フードから銀灰色の長い髪が現れ、夕暮れの残光を受けてわずかに揺れている。
カイは、立ち止まった。胸の奥で、確かな鼓動が静かに高鳴っていく。
彼女は、そこにいた。
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