第24話 決意の越境

 王国北部の地方都市。薄曇りの朝、冷たい空気が静かな駅を包んでいた。


 プラットホームに立つリィエンは、重いフードを深く被り、じっと列車の到着を待っていた。心臓の鼓動がわずかに高鳴る。先日の帰郷命令の際、帝国国内で感じたあの視線──思い出すだけで背筋が冷えた。


(……けれど、動くなら今しかない)


 翡翠の瞳に静かな決意が宿る。汽笛が鳴り、長い車体がゆっくりとホームへ滑り込んだ。小さく息を吐き、迷いなく乗り込む。


 午後になり、汽車は国境に近づいた。車掌の声が車内に緊張感を運ぶ。


「まもなく国境検問です。身分証のご用意を」


 車内に微かな緊張が走る。乗客たちが静かに書類を取り出す中、リィエンもゆっくりと外交身分証を握り締めた。


 やがて列車が停車すると、帝国国境警備隊の士官が数名の兵を伴って乗り込んできた。


「身分証をご提示願います」


 リィエンは一瞬だけ士官の目を見つめ、静かに書類を差し出した。士官は表情一つ変えずに確認を始める。


「……自治領所属、外交特例……」


 数秒の沈黙。心臓の鼓動が耳に響く。しかし士官は淡々と処理を終えた。


「自治領府の方でしたか。問題ありません。ご協力ありがとうございました」


 事務的な微笑みを浮かべ、手元の入国台帳にリィエンの氏名と出発地を記入する。インクの文字が静かに紙面に滲む──『リィエン・スィリナティア 王国北部経由』。


 その夜、台帳は帝都の管理室に届けられた。警備隊員が机上に広げた書類の束。隣で情報局の職員が黙々と記録を確認していた。


 ページをめくる手が、ある一行で止まる。


「……リィエン・スィリナティア──!?」


 出発地に視線を落とす。王国北部──。


(……王国北部経由だと? やはり王国と……)


 通信宝珠を素早く握り、低い声で報告を入れる。


「監視対象、入国確認。王国北部経由。即時、指示を仰ぎます」


 緊急連絡を受けた本部の会議卓では、沈黙が支配していた。


「事前通告は?」


「ありません。接触先は不明ですが、水面下の連絡を持っていた可能性は排除できません」


 局長は短く沈思し、やがて静かに命じた。


「……拘束せよ。だが決して刺激するな。静かに囲め」


 夜の街では監視網が静かに広がりつつあった。だが、リィエンはすでに宿に入っていた。荷を解き終え、窓辺に立つ。街の灯りが遠く揺れている。


 ふいに何かを感じ取り、右手をわずかに掲げた。手元に簡易感知陣が小さく浮かび上がる。淡く回転する魔法陣が、夜気のわずかな揺らぎを拾った。


 ──微かな探査波動が触れる。


(……また、だ。尾行の時と同じ気配)


 胸の奥で警戒心が高まる。帝国の尾行か、それとも──


(……まさか、王国の追手?)


 ここで捕まるわけにはいかない──逡巡の果て、リィエンは静かに息を吐く。


(……逃げるしかない)


 ゆっくりと窓の鍵を外し、音を立てぬように押し開けた。冷たい夜風が吹き込み、月光が銀灰の髪を照らす。小声の詠唱が紡がれた。わずかな震えも許されぬ、正確な発音で。


Seriyaセリヤ nephilネフィル saldaサルダ olオル──」


 空気がわずかに震え、身体が静かに浮き上がる。そのまま、窓の縁を蹴り外へと跳躍、帝都の夜空に身を滑らせた。

 眼下には整然と並ぶ街区の灯火。そして遠く微かに響く汽笛。風が髪を後方へ流し、裾をはためかせた。


 リィエンは低空を滑空しながら市街を離れていく。だが胸には別の緊張が渦巻いていた。


(──今度こそ、あの人に伝えなければ。私の言葉で)


 監視班の連絡が飛び交う。


「──対象、空中移動! 低空滑空中! 南西方向へ離脱!」

「所在特定困難! 本部に急報!」


 連絡を受けた局長は重く口を開く。


「兵器局へ通報せよ。現場は追跡を続行」


(接触するつもりか──何が狙いだ……)


 険しい表情のまま、局長は両手を組んだまま動かなかった。



 ウルバイン少佐の執務室では、当直の士官が慌ただしく駆け込んできた。


「失礼します、課長! スィリナティア氏、帝都内へ潜入を確認。王国関係者である可能性が指摘されています!」


 ウルバインは一瞥だけを返し、静かに答えた。


「……そうか。明朝、ヴェルティア中尉を呼べ。ラキネル局長へは私から伝える」


 夜の帝都は、張り詰めた静けさの中で、なお深く沈黙していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る