第2話



 ザザ……ン……と目の前に広がる広い海の一面。


 海に沈んでいく向こうの太陽が、黄金色に輝かせるその水面を見通しながらメリクは心の中で思った。



「メリクー」



 呼ばれて振り返る。


 なだらかな丘の上から、手に持った木の枝を振って、背の高い枯れ草を押し倒しながらやって来るのはイズレン・ウィルナートだった。


「釣れたかー?」


 側の桶を覗き込んでからイズレンは苦笑した。

「……釣れてるけど全部ちっちゃいな」

「うん」

 メリクも微笑む。

「放してもいい?」

「いいよ。そんなモン食ったって腹膨れないしな」

 メリクは海に向ってせり出した崖に腰を下ろすと、三メートルほどの高さの所から釣った小魚をぽーんと投げてやった。

 尾を一生懸命動かしながら小魚は水中に潜っていく。

「メリクは頭はいいけど釣りのセンスはゼロだな。この海はこーんくらいの魚たくさん取れるんだぞ」

「はは……」

 全部の魚を海に返して水も捨て終わると、後ろ手に手を付くメリクは、座ったままじっと夕暮れの海を見ていた。

 イズレンも隣に腰を下ろす。


「ちょっとはゆっくり出来たか? メリク」

「うん、出来た。エルヴァレーがこんなに綺麗な場所だったなんて知らなかったな」

「田舎だけどな。でも、実は俺も好きなんだ。こういう景色」

 メリクとイズレンは年明けの休みを使って、イズレン・ウィルナートの実家があるサンゴール最北の街エルヴァレーにやって来た。


 ここは古くから彼の一族であるウィルナート一族が統治する土地だ。

 冬の長い最北の街で、政治的拠点からは外されているとはいえ、大地は広大で古くからこの地に影響力を持つウィルナート家は、由緒ある名門として北の大地では認められている。

 彼らはこの地で農業や酪農をしながらエルヴァレーの広い大地を地道に管理して来たのだ。

 そういう意味では、ウィルナート家が輩出したという説が最も有力視されているくだんの魔術師ラムセスの存在は、ウィルナート一族としてもかなり異質な才能であったと言えるだろう。

 彼が歴史に現われるまで、炎の紋章を戴くウィルナート一族は【知恵の使徒】として名を馳せた人間は一度も輩出していなかったのだから。


「子供の頃はここらへんでいっつも牛とか馬の世話ばっかりさせられたんだ。そんな生活が死ぬまで続くなんて嫌で、親族の中では一番学歴の高いエルヴァレー教区の司教をやってる伯父に相談したら、魔術学院の入学推薦状書いてくれたんだよ。ま、どうせ通らないと駄目元で試験受けたら奇跡的に受かってさ。……運命が拓けたな、ってあれは嬉しかったなぁ……」


 ラムセスの名のお陰だと、以前彼が笑っていたことをメリクは思い出す。

「こんな田舎からあんな王都にいきなりって笑えるだろ」

「別に笑わないよ。それをいうなら僕だって同じさ。場違いな所に足を踏み入れた。……運命が拓けると思ってね」

「……そっか」

「うん……」


 イズレンは草の上に上半身を倒し寝そべった。


「でもなあ! これから宮廷魔術師選定試験に挑もうかって俺が言うことじゃないって分かってるけど、本当は――俺の本質は、多分こっちにあるんだと思うんだよなあ」

「本質?」

「そう。王都でいつも王家の為に働いている勤勉な宮廷魔術師見てみろよ。俺の柄に合うかあれ?」

 メリクは小さく笑った。

「似合うかもよ」

「似合わねーよ、絶対! 宮廷魔術師目指す過程で、すでに規則とか国に対する忠誠心とか要求されて居心地の悪さ感じてんのにさ。俺にはエンドレク・ハーレイみたいな勤勉な真似絶対に出来ないよ」

「かもね。宮廷魔術師は十分『それなりの立場』だ。失敗は国益を損ねる。許されない」

「だな」

 イズレンは溜め息をついた。

 白い息が空気に舞う。



「……それにお前を見てるとさ……ホントまつりごとって面倒臭いなって思うよ」



 メリクは夕暮れに染まる海を見つめていた。


「……何で人間って人間を貶めることに一生懸命になるんだろうな。

 他人がどんな痛みを負ってるなんか、所詮分かんないのにさ。

 十分すぎる傷を負ってる人間にだってどれだって追い打ちかけれるんだよ。

『どうせ誰にも心の中なんか見えないから』って言い訳して。

 何を言ってもいいと思ってる」


「……。」


「権力闘争なんて望む奴らが望む奴らだけでやればいい。でも望まない奴を巻き込むな」


 イズレンが今回エルヴァレーに自分を連れ出した理由を理解して、メリクは彼の隣で小さく微笑んだ。

 心が安らぐ。

 でもこういう一時の安らぎが、事態に対して何の意味も成さないということはもう分かっていた。

 だが友が心配してくれる気持ちがひどく嬉しい。有り難い。

 拒む理由が無くて――だからメリクはここへ来たのだ。一時凌ぎの安らぎだと分かっていても。


「……なぁメリク。俺さ……もし宮廷魔術師になれたら、王宮勤務じゃなくて国境警備団に入ろうかなって思ってるんだ」


 メリクは友を振り返った。


「国境警備団って……ラーシェンの?」


 ラーシェンはサンゴール最西部の国境の街だ。

 リングレーと旧エルバト王国領に近く、今だに【有翼の蛇戦争】時の混乱から立ち直っていないそのあたり一帯は、無政府状態で山賊や仕事のない傭兵などが、大義名分も無く争いを起こしている。


 そこに一番近いサンゴール国境の街ラーシェンには王都から国境警備団という名目でサンゴール騎士団・宮廷魔術師団両組織から三十名規模の小隊が遣わされて常駐している。

 そこに五十人ほどの志願兵で構成された約百人ほどの軍団が置かれているのだ。

 彼らの使命はただひたすらに国境を脅かす敵を討ち、サンゴールの防衛線を維持することだけに限られる。


「あそこは本当の戦地だよ? 常駐生活って言っても 月に二、三度は実際に戦闘が起こるっていうし……」

「それは分かってる。でも王都だって同じさ。戦地だよ。しかもこっちの戦はより下らない」

「……。」

「ラーシェンの国境警備団はサンゴールの平穏をあそこ一つで食い止めてるんだ。立派な仕事だよ」

 メリクは友の言葉を聞いていた。

「俺は、メリクには悪いけど、サンゴール王家にはそんなに思い入れないんだ。

 エルヴァレーはこの通り政治的価値はゼロで、王家のお情けや庇護を受けたことなんて一度もない。王都では、大神殿と騎士団はいつもいがみ合ってるし――宮廷魔術師団だって所詮あの第二王子の犬さ」


「イズレン……」


 メリクは驚いた。

 気のいい男であるイズレン・ウィルナートがこうも他をはっきりと攻撃するのを初めて見たからだ。

 しかしメリクの方を見たイズレンはいつも通りの笑顔を浮かべた。



「お前はお前の、第二王子に対する恩義があるのは分かるよ。

 ――でも俺は、弟子を見捨てるような師匠は大っ嫌いなんだ。」



 彼はゆっくりと起き上がる。


「俺が恩義を感じるのは、自分を生み育ててくれたこのエルヴァレーの土地と家族と、魔術学院で逢った気の合う一握りの友人達だけだ。……それだけは自分の手で守りたい」


 メリクが驚くばかりの言葉を友は重ねる。

 半年前は遊び暮らしていた彼が今や宮廷魔術師を目指し動き始め、しかし目指す過程で、すでに物事の本質がどこにあるかを見抜き、進むべき道を選び取っている。

 メリクは驚いていた。


 ……そして心底、その友のまっすぐな心根に胸を打たれたのだった。


 国の情勢が変わるように、人間もこんなに短期間に変わるものなのか。

 良い方向にも。



(僕はいつも、…………いつも気づくのが遅い)



 何故そうなのだろう。

 何故自分だけが悪しき方向に不変なのだろう。

 いつだって心は悔い改めて、地味に波風を立てず……ただ第二王子が呼んだ時だけ側に行き、その力になれればいいとしか考えていないのに。


「王都にいたんじゃそれは守れないんだ。

 王都には、王都の事情で苦しんでる人間しかいない。でも国が乱れて本当に傷つくのは誰だ? 王都の人間じゃない。こういう、王都以外の辺境に暮らす人間達なんだよ。守られない人達を守る人間がいなくては、この国は終わりだ」


 守られない人達を――。


 そう聞いても第二王子の顔しか過らない自分は、一番国政に関わって糾弾されるべき人間なんだろうなと、メリクは思っていた。

 何が王女に相応しい人間だ、と。

 笑い話を笑わないサンゴールの人間達は本当にどうかしている。


「なぁ……メリク……俺はそういう風に考えてるんだけどさ。良かったらお前もラーシェンに行かないか?」


「僕も?」


 うん、と友は頷く。

「そりゃ出世とは縁の無い生活になるのは確かだけど、給金はこっちにいるより出るんだぜ。お前もともと出世に興味なんかないだろ。同じように暮らすんなら、何をしても報われない王都よりよっぽどいい」

 イズレンは迷いなくそう言った。

 彼の耳にもメリクに対する王宮の近頃の噂は耳に入っているのだろう。

「ま、ちょっとした提案だ。道は一つじゃないってことさ。考えてみてくれよ」

 イズレンは笑う。



(道は一つじゃない……)



「あー腹へって来たなぁ。そろそろ帰るか」


 この友は、いつだって自分にこうやって手を差し伸べてくれる。

 ……嬉しかった。


「うん。……ありがとう、イズレン」


 立ち上がったイズレン・ウィルナートがひらひらと手の平を振りながら、また木の枝でわさわさした枯れ草を退けて、丘を登り出す。

 メリクも立ち上がり彼の後ろについていった。

 その途中で海に沈む太陽の一筋を振り返る。

 細い一本の黄金の筋が海面に差し込み、そして数秒後にふっ……とそれは消えた。

 急に辺りがしん、と暗くなり出し寒くなってくる。



「メリクー。早くついてこいよー。夜道になるぞー」



 メリクは手を上げて丘を登り出す。


(何をしても報われない王都よりいい、か)


 イズレン・ウィルナートの言う通りだった。

 王都にいる限り、良いことをしても悪いことをしても結局、メリクは貶められる。

 

 

 ……不自由な人生だ、と彼は小さく息をついた。


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