第16話:カイン、来襲

 地平線を埋め尽くす松明の光は、一夜にして津波のようにカームの町へと押し寄せた。

 夜明けと共にその全貌を現した軍勢は、町の者たちの覚悟を嘲笑うかのように、圧倒的な威容を誇っていた。整然と隊列を組む兵士たち。その数は、目算で五千は下らないだろう。辺境の小さな町を蹂躙するには、あまりにも過剰な戦力だった。

 軍勢の中央、ひときわ豪華な装飾を施された軍馬に跨り、一人の男がゆっくりと前に進み出る。


 陽光を反射して輝く金色の髪。かつては民衆の希望の象徴だったその髪は、今はどこか色褪せ、彼の内なる歪みを映し出しているかのようだった。

 元勇者、カイン・ウォーカー。

 彼の顔には、かつての英雄の面影はなかった。あるのは、飽くなき野心と、他者を見下す傲慢な光だけだ。

 そして、何よりも異様なのは、彼の左腕だった。かつて失ったはずの腕は、黒く、禍々しい輝きを放つ魔導義手へと変わっていた。指先からは常に不吉な魔力の煙が立ち上り、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる。


「…これが、英雄の成れの果てか」

 町の入り口に築かれたバリケードの上から、アッシュは静かに呟いた。

 カインは、町の貧相なバリケードを一瞥すると、鼻で笑った。

「くだらんな。虫けらの、ささやかな抵抗か」

 彼は右手の剣を軽く振るう。それだけで、軍勢の先頭にいた重装歩兵の一団が、地響きを立てて前進を開始した。

「蹴散らせ」

 カインの冷たい命令一下、兵士たちは巨大な破城槌を構え、バリケードへと突進する。

 町の男たちが必死に応戦するが、多勢に無勢。轟音と共に、バリケードの一部が木っ端微塵に砕け散った。


 ときの声を上げ、兵士たちが町へと雪崩れ込んでくる。

 だが、その先頭に立っていたのは、カイン自身だった。彼は馬から飛び降りると、まるで散歩でもするかのような足取りで、まっすぐに陽だまりベーカリーを目指して歩き始めた。彼の周りでは、町の男たちが勇気を振り絞って斬りかかるが、カインは魔導義手の一振りで、彼らを玩具のように吹き飛ばしていく。

 その目的地は、ただ一つ。


「久しぶりだな、エリーゼ」


 パン屋の前で、アッシュと共に兵士たちを迎え撃っていたエリーゼの前に、カインは立ちはだかった。

 エリーゼは、その変貌した姿と、かつて自分を支配した男の声を前にして、全身が凍りつくのを感じた。トラウマが、冷たい鎖のように彼女の身体を縛り付ける。

 カインは、そんな彼女の様子を見て、たのしげに唇を歪めた。

「相変わらず、怯えた顔がよく似合う。だが、案ずるな。お前はまだ、俺の役に立つ」

 彼は、黒い魔導義手をエリーゼに差し伸べる。

「大人しく来い、エリーゼ。俺と共に、新たな世界を築くのだ。お前の力は、その礎となるにふさわしい」

 その言葉は、甘く、しかし、抗いがたい呪いのようだった。

 エリーゼは、恐怖に震えながらも、アッシュの背中を、そして町の仲間たちの姿を思い出した。

 もう、守られてばかりの自分ではいたくない。

 彼女は、カインの目を真っ直ぐに見据え、震える声で、しかし、毅然として言い放った。


「…断ります」

「何?」

「私はもう、あなたの道具じゃない…!」

 カインの顔から、笑みが消えた。

「あなたのその歪んだ野望に、付き合うつもりはありません!」

 エリーゼの決然とした言葉に、カインは一瞬だけ驚きの表情を浮かべた。だが、それはすぐに、侮蔑ぶべつの光へと変わった。

「…口答えを覚えたか、役立たずが。この俺に逆らって、どうなるか分かっているのか?」

 カインの魔導義手から、殺気が放たれる。エリーゼは思わず後ずさった。

 その時だった。


「彼女に指一本触れさせない」


 静かな、しかし、鋼のような意志を込めた声が響いた。

 エリーゼとカインの間に、アッシュが立ちはだかっていた。彼は、先程まで兵士と戦っていたパン切り包丁を、ただ静かに構えている。

 カインは、アッシュを一瞥すると、鼻で笑った。

「パン屋か。英雄譚に憧れるのは結構だが、命が惜しければ引っ込んでいろ。これは、俺と彼女の問題だ」

「いや。これは、俺の問題でもある」

 アッシュは、エリーゼを背中に庇うように、半身になる。

「彼女は、俺の家族だ。そして、この町も、俺の居場所だ。それを脅かす者は、誰であろうと容赦しない」

 その言葉に、カインは心底から可笑しそうに肩を揺らした。

「家族? 居場所? 笑わせるな。力こそが全てだ。力なき者の言葉など、何の価値もない」

 だが、カインは気づき始めていた。

 目の前の男から放たれる、ただならぬ闘気に。

 それは、そこらの兵士や町の男たちとは、明らかに次元が違っていた。静かでありながら、底の知れない深淵を覗き込むような、圧倒的なプレッシャー。

 (…貴様、何者だ? ただのパン屋ではないな?)

 カインの瞳から、あなどりの色が消え、警戒の色が浮かぶ。

 アッシュは、何も答えなかった。

 ただ、構えを低くし、その視線で、好敵手を前にした獣のように、カインを捉える。


「面白い。少しは、退屈しのぎになりそうだ」

 カインはそう言うと、右手の剣を構え直した。

 アッシュもまた、パン切り包丁を逆手に持ち替える。

 一瞬の静寂。

 風が、二人の間を吹き抜けた。


 先に動いたのは、カインだった。

 地を蹴り、常人離れした速度でアッシュに肉薄する。その剣閃けんせんは、かつての勇者の名に恥じぬ、鋭く、そして重い一撃。

 アッシュは、それを避けない。

 彼は、自ら踏み込み、パン切り包丁でカインの剣を正面から受け止めた。


 キィィィィンッ!!


 甲高い金属音が、戦場の喧騒を切り裂いて響き渡る。

 パン屋の包丁と、勇者の剣。

 ありえないはずの光景が、今、現実のものとなっていた。

 二人の視線が、至近距離で交錯する。

 散った火花が、これから始まる死闘の幕開けを告げていた。

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