第15話:束の間の平和と、決戦の予感

 教会での激しい戦いが終わった後、カームの町には、つかの間の、しかし、どこか張り詰めたような平和が戻ってきた。

 町の人々は、傭兵たちの第二波を撃退したことに安堵しつつも、敵が残した「ヴァルケンハイン将軍」という不吉な名に、次なる嵐の到来を予感していた。

 だが、彼らはもう、ただ怯えているだけではなかった。広場では、若者たちが衛兵の指導のもと、剣や槍の訓練に励み、女たちは炊き出しや負傷者の手当てに奔走している。町全体が、来るべき決戦に向けて一つの大きな意志となり、動き始めていた。


 その輪の中心には、サイモン・ミラーの姿もあった。

 彼は戦いで負った傷の治療を受けながらも、町の防衛計画の策定や、物資の管理といった会計係としての知識を活かして、精力的に働いていた。

 戦いの後、彼は町長エドガーと町民たちの前で、自らの罪を全て告白し、深々と頭を下げた。

 町民たちの中には、彼を非難する声もあった。だが、町長エドガーは、友の過ちを静かに受け止めた。

「君の苦しみも理解できる。だが、これからは、その働きで町のために尽くしてくれ。それが、君の償いだ」

 その言葉に、サイモンは涙を流して感謝した。彼は、町に受け入れられたのだ。そのことが、彼に戦う勇気と希望を与えていた。


 一方、陽だまりベーカリーでは、アッシュとエリーゼもまた、決戦への備えを進めていた。

「もっとです…! もっと、効率よく魔力を…!」

 裏庭で、エリーゼは汗だくになりながら魔法の訓練に励んでいた。

 彼女は、ただ光の玉を作るだけのレベルから、格段の進歩を遂げていた。敵の動きを阻害する土の魔法、味方を守る風の障壁、そして、それらの補助魔法と攻撃魔法を組み合わせる高度な訓練。アッシュの的確な助言を受け、彼女の才能は驚くべき速さで開花しつつあった。

 彼女の瞳には、かつての怯えの色はなく、ただひたすらに、愛する者たちを守りたいという強い意志が燃えている。


 アッシュは、そんな彼女の成長を頼もしく思いながらも、一人、工房の地下室に籠っていた。

 彼の目の前には、一本の長剣が置かれている。

 刀身は夜の闇をそのまま切り取ったかのように漆黒で、光を全く反射しない。柄の部分には、禍々しい装飾が施されている。

 魔剣「夜天やてん」。

 かつて、静寂のアッシュと共に、幾多の血を吸ってきた呪われた剣。

 アッシュは、乾いた布で、その刀身を静かに磨き上げていく。彼が魔力を込めると、魔剣はそれに呼応するように、鈍い光を放ち、ぶうん、と低く唸った。

 この剣を、再び振るう日が来ようとは。

 それは、彼が最も避けたかった未来だった。パンを捏ねるべきこの手で、再び人の命を奪うことへの深い葛藤が、彼の心を苛む。

 だが、彼はもう迷わない。

 守るべきものが、彼にはできたからだ。エリーゼの笑顔、町の温かい人々、そして、この穏やかな日常。その全てを守るためならば、彼は再び、修羅の道に戻る覚悟を決めていた。

 このことは、エリーゼには話していない。彼女を、これ以上闇の世界に引きずり込みたくはなかった。


 訓練と準備に明け暮れる日々の中、二人の間には、以前にも増して穏やかで、そして確かな絆が育まれていた。

 その日の夜、アッシュは工房で一つの小さな瓶を取り出した。中には、彼が培養した特殊な酵母が入っている。それは、彼の魔力の一部を分け与えた、いわば彼の分身のようなものだった。

 彼は、それをエリーゼに差し出した。


「エリーゼ。もし、万が一、俺に何かあったら、これを使え」

 瓶と共に、一枚の羊皮紙も手渡される。そこには、特別なパンのレシピが記されていた。

 エリーゼは、それらを見て、はっと息を呑んだ。

 アッシュの言葉が意味するものを、彼女は即座に理解した。

「縁起でもないこと、言わないでください!」

 彼女の声は、涙で震えていた。

「私も、一緒に戦います! アッシュさんがいなくなったら、美味しいパン、誰が焼いてくれるんですか…!」

 彼女は、受け取った瓶とレシピを、アッシュの胸に強く押し返した。

「アッシュさんこそ、何かあったらどうするんですか! 私…私は…!」

 言葉にならない想いが、彼女の瞳から溢れ出す。

 アッシュは、そんな彼女の姿を見て、たまらなく愛おしいという気持ちに駆られた。彼は、エリーゼの肩を優しく掴む。

「…すまない。お前を不安にさせるつもりはなかった」

「……」

「分かった。これは、二人で使うためのお守りにしよう。必ず、二人で生きて帰って、このパンを焼くんだ」

「…はい」

 エリーゼは、涙を拭い、力強く頷いた。

 二人の絆は、もう何ものにも揺るがないほど、強く、固く結ばれていた。


 翌日。

 町の物見台から、警鐘がけたたましく鳴り響いた。

 アッシュとエリーゼが広場に駆けつけると、町の男たちが息を呑んで、遥か西の地平線を見つめている。

 地平線の彼方が、不気味なほどに赤く染まっていた。

 それは、夕焼けの色ではない。

 数千、いや、万を超えるかもしれない大軍勢が掲げる、おびただしい数の松明の光だった。

 カインと、ヴァルケンハイン将軍の軍勢が、ついにその姿を現したのだ。

 町の入り口には、一夜にして築かれた粗末なバリケードが、その大軍を前にしてあまりにも頼りなく見えた。

 だが、町の男たちの顔に、もはや絶望の色はない。

 誰もが、武器を手に取り、愛する者たちを守るため、覚悟を決めた顔をしていた。


 アッシュは、隣に立つエリーゼの手を、強く握った。

 エリーゼもまた、その手を強く握り返す。

 決戦の時が、来た。

 二人の心は、静かに、そして熱く燃えていた。

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