第17話:静寂のアッシュ、再び

 金属の軋む音が、耳障りに響き渡る。

 アッシュとカインは、剣とパン切り包丁を合わせたまま、至近距離で睨み合っていた。

「ほう…やるな、パン屋。ただの腕力だけではなさそうだ」

 カインは、意外そうな表情で口の端を吊り上げた。彼の渾身の一撃を、目の前の男はびくともせずに受け止めている。その足は大地に根を張ったかのように揺るぎない。

「お前こそ。勇者の名も、伊達ではなかったようだな」

 アッシュは静かに応じる。

 二人は、弾けるように距離を取ると、再び剣を交えた。

 剣戟けんげきの嵐が吹き荒れる。

 カインの剣筋は、勇者と呼ばれただけあって、洗練され、かつ力強い。一撃一撃が、岩をも砕くほどの威力を秘めている。

 対するアッシュは、派手な動きこそないものの、最小限の動きでカインの猛攻を捌き、時には鋭いカウンターを繰り出した。その動きは、まるで精密機械のように正確無比だった。

 周囲の兵士たちも、町の男たちも、次元の違う戦いを前に、ただ息を呑んで見守るしかない。


「だが、いつまで持つかな!」

 カインは叫ぶと、左腕の魔導義手をアッシュに向けた。

 義手の指先から、黒い魔力の弾丸が連射される。アッシュは、身を翻してそれを避けるが、魔弾は背後の建物をえぐり、大きな破壊音を立てた。

「くっ…!」

 アッシュは、魔導義手の厄介さに顔をひそめる。剣の腕だけなら互角以上に渡り合える。だが、遠距離からの魔力攻撃は、パン切り包丁一本では防ぎきれない。

 じり、と後退するアッシュ。カインは、その隙を見逃さなかった。

「終わりだ!」

 カインは、剣と魔導義手を同時に繰り出し、アッシュに猛攻を仕掛ける。

 アッシュは、必死にそれを捌くが、防戦一方。その戦いぶりは、傍目には、追い詰められているようにしか見えなかった。

「やはりただのパン屋か! その程度の力で俺に逆らうとは!」

 カインの嘲笑が響く。


「アッシュさん!」

 その様子を見ていたエリーゼは、意を決して両手を前に突き出した。

 彼女は、訓練の成果を思い出す。ただ光を放つだけではない。もっと、戦いを補助する魔法を。

「風よ、彼の足枷となれ!」

 エリーゼの詠唱に応え、カインの足元に小さなつむじ風が発生した。それは、彼を吹き飛ばすほどの力はない。だが、その動きを一瞬だけ、ほんの一瞬だけ鈍らせるには十分だった。

「小賢しい真似を!」

 カインは忌々しげに舌打ちすると、エリーゼへと視線を向けた。

「お前の小細工など、全てお見通しだ!」

 彼はエリーゼの魔法の弱点を知り尽くしている。彼女が次の魔法を詠唱する前に、魔導義手から牽制の魔弾を放った。

 エリーゼは、咄嗟に防御魔法を展開しようとするが、間に合わない。

 その時だった。


「――させるか!」


 アッシュが、カインの前に立ちはだかり、エリーゼを庇うようにその身を盾にした。

 ガキン、という鈍い音。

 カインの振り下ろした剣が、アッシュの肩に深々と食い込んだ。

 鮮血が、パン屋の白いシャツを赤く染め上げていく。


「アッシュさんっ!!」


 エリーゼの悲痛な絶叫が、戦場に響き渡った。

 アッシュは、片膝をつき、苦痛に顔を歪める。

「は…ははは! 愚かな奴め! 女を庇って死ぬとはな!」

 カインは、勝利を確信し、高らかに笑った。彼は、アッシュにとどめを刺すべく、剣を大きく振りかぶる。


 その瞬間。

 アッシュの周りの空気が、変わった。

 うなだれていた彼の顔が、ゆっくりと持ち上がる。

 その瞳は、もはや人間のそれではなかった。

 燃えるような、金色。

 冷たく、底光りする、捕食者の瞳。

 そして、彼の全身から、今まで抑え込んでいた膨大な魔力が、黒いオーラとなって立ち昇った。

 周囲の空気が凍りつくほどの、圧倒的な威圧感。戦場の喧騒が、一瞬だけ、完全に静止した。

 カインは、その凄まじいプレッシャーを前にして、本能的な恐怖に全身の毛が逆立つのを感じた。

 (な…なんだ、こいつは…!?)


 アッシュは、静かに立ち上がった。肩の傷口からは、血ではなく、黒い魔力の煙が立ち上り、みるみるうちに傷が塞がっていく。

 彼は、右手を虚空に掲げた。

「来い――」

 その呼び声に応えるかのように、陽だまりベーカリーの地下から、漆黒の何かが凄まじい勢いで飛来し、アッシュの手に収まった。

 魔剣「夜天やてん」。

 光を呑み込む、夜の闇そのもののような刀身。

 アッシュは、その魔剣を静かに構えた。その姿は、もはやパン屋のアルフレッドではない。

 かつて、魔王軍最強と謳われた、冷徹なる破壊者。

 静寂しじまのアッシュ、その人だった。


「……貴様のような奴に」


 その声は、冬の夜のように冷え切っていた。


「彼女も、この町のパンも、渡すものか」


 次の瞬間、アッシュの姿が消えた。

 カインが反応するよりも早く、その背後に回り込んでいる。

 ザシュッ、という肉を断つ生々しい音。

 カインの自慢の魔導義手が、肘から先、いとも容易く切り飛ばされていた。

「ぐ…あああああっ!?」

 激痛に、カインが絶叫する。

 アッシュは、表情一つ変えずに、魔剣の切っ先をカインの喉元に突きつけていた。

 形勢は、完全に逆転した。

 その圧倒的な力の差を前に、カインはただ、恐怖に震えることしかできなかった。

 エリーゼもまた、その光景を呆然と見つめていた。

 アッシュの変わり果てた姿。あの、禍々しくも、どこか悲しみを帯びた力。

 だが、今の彼女の心に、恐怖はなかった。

 ただ、自分を庇ってくれた彼の背中と、彼の放った言葉だけが、強く、強く、胸に響いていた。

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