第20話:ミストラル村の夜明けと、英雄(不器用)聖女の誕生(とティアラの長期スリープ)

 いにしえほこらでの死闘から、数日が経過した。

 ミストラル村を覆っていた濃密な瘴気しょうきは完全に消え去り、呪いの森もまた、以前の不気味さが嘘のように、清浄な空気に満ちていた。

 空はどこまでも青く澄み渡り、太陽の暖かな光が、再生を始めた村の隅々まで優しく降り注いでいる。畑には瑞々みずみずしい緑の新しい芽が力強く顔を出し、家畜たちも元気な鳴き声を上げ、子供たちの屈託のない笑い声が村中に響き渡っていた。

 それはまさに、長い悪夢から覚めたかのような、穏やかで平和な光景だった。


 村長ゴードンの家の一室。

 清潔な寝台の上で、セシリアはゆっくりと意識を取り戻した。

 最後に見た、ティアラの光が消えゆく光景と、胸を締め付けるような喪失感が、まだ鮮明に記憶に残っている。

「……ティアラさん……?」

 かすれた声で、頭上の気配を探る。

 そこには、確かにティアラがあった。しかし、その蒼穹石そうきゅうせきは深く光を失い、まるでただの冷たい金属の塊のようだ。以前、優が言っていた「ただの石ころ」という言葉が、皮肉にも現実のものとなってしまったかのように。中央の宝石に入ったかすかな亀裂も、痛々しく残ったままだ。


「ティアラさん……? デバッガーさん……?」

 何度呼びかけても、あの憎まれ口ばかりだが、どこか頼りになる声は聞こえてこない。

 セシリアの大きな青い瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。言いようのない不安と、そして深い感謝の念が、彼女の胸を満たしていた。


 セシリアが目覚めたことを知った村人たちが、次々とゴードンの家に押しかけてきた。

 先頭にいたのはティナだった。彼女は、セシリアの姿を見るなり、わっと泣きながらその胸に飛び込んできた。

「聖女様! よかった、よかったよぉ……!」

 エドガーも、まだ怪我の痕が痛々しいものの、安堵の表情でセシリアに頭を下げる。「聖女様、本当に……ありがとうございました。あなた様がいなければ、この村は……」

 他の村人たちも、口々に感謝の言葉を述べ、セシリアの回復を心から喜んでいる。その顔には、以前のような疑念や冷たさは微塵もなく、ただ純粋な尊敬と親愛の情が浮かんでいた。


 村は、数日後に盛大な「再生祭」を開くことを決定した。それは、呪いが解けたことを祝い、村の新たな出発を記念する祭りであり、その主役はもちろん、村を救った英雄――聖女セシリア・ルミエールだった。

 セシリアは、村人たちの熱烈な歓迎ぶりに戸惑いながらも、彼らの心からの笑顔に触れるうちに、少しずつ元気を取り戻していった。

 しかし、頭の上のティアラの沈黙は、依然として彼女の心に重くのしかかっていた。


 セシリアは、ふと寝ぼけてティアラを枕元に置いたまま起き上がり、村人ににこやかに挨拶しようとして、「あ、ティアラさんを忘れてました!」と慌ててベッドに取りに戻るなど、相変わらずどこか抜けたところは健在だった。村人たちは、そんな彼女の様子を「聖女様は、あのティアラを本当に大切にされているのだな」と、微笑ましく見守っていた。


 その夜のことだった。

 セシリアが一人で部屋に戻り、光を失ったティアラを手に取り、どうすればまた優の声が聞けるのだろうか、どうすればこの冷たい金属に温もりが戻るのだろうかと、ただただ無心に祈りを捧げていると――。

 ふと、窓の外から柔らかな光が差し込んできた。

 見ると、そこには、月光を浴びて幻想的に輝く、美しい女性の姿があった。それは、いにしえほこらで出会った、正常な姿を取り戻した精霊シルフィードの幻影だった。


 シルフィードは、セシリアの前に静かに降り立つと、深々と頭を下げた。

「聖女セシリア様。そして、その頭におられた、今は眠りについておられる勇敢なる魂の方……。この度は、誠に、誠にありがとうございました。あなた方のおかげで、私は長きにわたる苦しみと絶望から解放されました。このご恩は、決して忘れません」

 その声は、清らかで、そして心からの感謝に満ちていた。


「シルフィード様……」

 セシリアは、シルフィードの美しい姿に息を呑んだ。

「ティアラさんは……デバッガーさんは、もう、元には戻らないのでしょうか……?」

 震える声で尋ねるセシリアに、シルフィードは悲しげに、しかし優しく首を横に振った。

「あの方は、あなた様と私、そしてミストラル村を救うために、ご自身の魂の核とも言える部分を、限界を超えて酷使されました。今は、深い深い眠りについておられます。……その魂が再び目覚めるかどうかは、正直なところ、私にも分かりません。ただ、奇跡を信じ、祈り続けるしか……」

 シルフィードはそう言うと、そっとセシリアの手の中にあるティアラに触れた。彼女の指先から、温かく清浄な聖なる光がティアラへと流れ込み、まるで優しく包み込むように、しばしその場に留まった。その光に触れたティアラの蒼穹石そうきゅうせきが、ほんの一瞬だけ、かすかに温もりを帯びたように感じられた。そして、宝石の表面に入っていた亀裂が、ほんの少しだけ薄らいだように見えたのは、セシリアの気のせいだろうか。

「これは、私からのささやかな感謝の気持ちです。あの方の魂が、少しでも安らぎを得られますように……」

 そして、シルフィードは再びセシリアに一礼すると、月の光の中へと静かに姿を消していった。


 シルフィードの言葉は、セシリアにとってあまりにも残酷なものだった。

 しかし、同時に、優が自分たちのためにどれほどの犠牲を払い、どれほどの覚悟で戦ってくれたのかを、改めて痛感させられた。

 そして、先ほどのティアラのかすかな変化――それは希望の光かもしれない。

 涙が溢れて止まらなかった。でも、それは絶望の涙だけではなかった。

(ティアラさん……デバッガーさん……必ず、必ず目を覚ましてください……!)

 セシリアは、胸の中で強く、強くそう誓った。


 数日後、ミストラル村の再生祭の日がやってきた。

 村は、これまでにないほどの活気に満ち溢れ、広場には村人たちの笑顔と楽しげな音楽が響き渡っている。

 セシリアは、村人たちに請われ、祭りの中心に設けられた質素ながらも美しい祭壇の前に立った。その頭には、変わらず光を失ったティアラが乗せられている。


(ティアラさん……今日の私を見ていてください。あなたが助けてくれたこの村で、私は聖女として、精一杯頑張りますから……!)

 セシリアは、心の中でそう語りかけ、集まった村人たちに向かって、晴れやかな、そして少しだけ寂しさを湛えた微笑みを向けた。

 彼女の新たな一歩が、今、始まろうとしていた。

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