終幕 魂に共演を

 この世は、舞台だ。幕が上がり、主人公となって舞い踊り、やがて幕が降りる。その間にどれだけの拍手を浴びるかで、人生が決まる。そう考える人間もいる。

 松野重幸もまた、そんな一人の、れっきとした俳優だ。


 こんな幕切れなんて、お前の役者魂が許さないだろう。いや、最後の最後まで舞台の上にいたなんて、お前らしいかな。

 松野の死を知った翌日、彼の唯一の親友・内村は、松野の自宅へとやって来ていた。よくお邪魔しては、二人で稽古をしたり、晩酌をしたりしていた。しかし、いつの間にやら、半年に一度会うのがやっとになっていた。

 遠くなった思い出に浸りながら、彼の自宅の前の通りを歩いていた時だった。ふと顔を上げると、一人の女性が、門扉の前で呆然と立ち尽くしていた。

「……あの」

 彼女は内村が近づいたことにも気が付かず、彼が声をかけた瞬間に、初めて顔を上げた。振り返ったその顔から、さーっと血の気が引いていくのが窺えた。

 踵を返して走り去ろうとした彼女の手を、内村は思わず掴んでしまった。

「なっ! なんですか!? ちょっと! 離してください!」

「どうして逃げるんだ!」

「い、いきなり声掛けられたら、びっくりするでしょ!?」

 彼女は内村の腕を振り払うと、大袈裟に咳払いをして、胸を張った。

「で、何かご用ですか? 内村崇さん」

「おや、僕のことを知ってくれてるんだね」

「当然ですよ。私は、松野の事務所のスタッフですから」

「へえ、そうなんだ。シゲの関係者が、サイン会であんなに舞い上がったりするかなあ?」

 彼女の表情が、また凍りついた。そして恐る恐る、内村を振り返る。

「……私を、ご存知で?」

「君、シゲの公演や舞台に、いっつもいるだろ。しかも最前列。僕もシゲから毎回チケットを送ってもらってたんだ。君を見かけない回なんか、ほとんどなかったよ」

「……違う方と、間違えておられるのでは?」

「それはないな。君みたいな若い子は、シゲのファン層には絶対にいないからね」

「……ばれちゃったかあ」

「大胆だねえ、嘘のつき方が……」

 松野のファンを名乗る女性の名前は、圦浦晴と言った。

 内村は、この名前に覚えがあった。

 一年前、内村は、ヒノデテレビ主催の脚本賞に、審査員の一人として抜擢された。最終選考に残った三作を選定したのだが、その中に彼女の名前があったはずだ。

 その話を出すと、晴もまた目を丸くした。

「お、覚えててくださったんですか?」

「まあ、珍しい苗字だなと思ったのと……他の作品に比べて、明らかに異質だったから」

 他の作品が、ありきたりな家族愛や青春の絆を謳うものであった中、晴の作品は、主人公が老人同士という点で目を引いた。しかしそれが、「大賞として放送するにあたり見映えがない」という理由で落とされた原因でもあった。もちろん、審査員と局の間だけで交わされた会話だったが、晴も薄々気がついていたようだった。

「上手くいけば、シゲさんや内村さんが演じてくれるんじゃないかって、期待してたんですけどね」

「僕は面白いと思ったよ」

「はは、ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」

「お世辞じゃないさ。僕は本気で、あの物語の続きが見たい」

「でも、人目につかない物語なんて、価値のないただの落書きですから」

「だったら、現実にしてやろう」

「……え?」

「せっかく落とされたんだ。大賞がなんだ? たった一回放送されるだけだ。そんなものを超えて、俺たちの舞台を作ろうじゃないか!」

 作品のタイトルは、『死してなお輝く』。

 それは、死んでしまった老俳優が、友人の身体を借りて再び舞台に立つ物語。

「復活させるのさ。俺たちの愛する名優・松野重幸を!」


「――なるほど? 裏で糸を引いていたのは、あなただったということですか」

 話し終えると、目の前の死神は、長いため息をついた。

「彼女の詰めの甘いところが、シゲにいろんな危機を与えていたけどね。ま、すんなり成功しては面白くない。物語に緩急は不可欠だから」

「最後に解決したのはワタクシですが?」

「そうだっけ?」

「はあ……」

 内村は、葵屋敷の公演の後、体調が悪化し入院、その後、あっという間にこの世を去った。死後、冥界へとやって来た彼は、帳簿をつける死神に呼び出されたのだ。

「しかし、もしも松野重幸が、早々に正体を明かして誰かに助けを求めたら、この物語は成り立たなかったでしょうな。たとえば、あなたとか」

「それは絶対にないと思っていたよ」

「絶対に?」

「彼のプライドの高さは、僕がいちばん知っているからね。彼は僕を親友と慕ってくれていたけど、それは定規としての立ち位置だったんだ。自分の努力を分かってくれる人、自分の実力の大きさを比べることができる人……だから、彼にとって僕は、助けを乞うような相棒ではなかった」

「確かに。見事な分析です」

「すっきりしただろう? 監督から裏話が聞けて」

「ええ、まあ」

「では、僕はこれで」

「お待ちください」

 ふわりとその場を去ろうとした内村を、死神は鋭い声で制す。ぱたんと帳簿を閉じ、彼は内村を睨みつけた。

「あなた――身体はどうしたんです」

 青く揺らめく、表情もないただの人魂。しかし死神には彼が、にやりと微笑んだように見えた。

「さあね」

「それと、ワタクシの大事なお茶汲みはどこです?」

「それなら、今日から僕が引き受けるぜ」

 内村はそう言って、死神の周りをくるりと回ってみせた。

「松野重幸の何が……あなた方をそこまで執着させるのです?」

「あんただって、もう少し観ていたいと言ったそうじゃないか」

「あれはからかっただけですよ」

「それに、執着しているのはシゲのほうさ。あいつは、芝居に取り憑かれているからな。強いて言うなら……僕の場合は、応援という名の、復讐かな?」

「復讐?」

「僕らを蔑ろにしてまで求めた芝居をやってもらわないとな。葵屋敷の芝居を差し置かれても仕方がなかったと、僕が納得するまでは、彼に死なれるわけにはいかない」


 開場を目前に、小劇場には緊張感が漂う。彗の鋭くも暖かい歌声が劇場を包み、焼き尽くすほどの照明と、鼓膜を揺さぶる音響が、世界に一気に引き込んでくる。小さな舞台の上にはセットが並べられ、一つの景色が着々と出来上がっていく様子に、晴は胸の高鳴りのままに浮かび上がりそうな気分だった。

 その時、勢いよく開いた扉の音が、劇場の雰囲気を一変させた。

「相変わらず、みすぼらしいスケールだこと」

 空気を切り裂いたのは、井高の冷たい声だった。

「おや、君を招待した覚えはないな」

 客席から立ち上がった南雲が、井高と対峙する。

「もっとも、公演初日の今日から千穐楽まで、招待する気はないけれど」

「公演? 笑わせるなあ。こんなゴミ溜めに、誰が来るんだ」

「なんだと、てめえ!」

「やめろ、樹!」

 怒りのままに客席に駆け降りた樹を、南雲の鋭い声が制した。

 南雲は井高の目を見つめ、静かに言葉を紡いだ。

「僕の芝居が気に入らないのは十分に分かった。君は納得のいく劇団を立ち上げたんだろう? なのにどうして、まだ僕に固執する? やっぱり、光芒座が恋しいのか?」

「まあ、あながち間違いじゃないな」

 すると、井高は舞台に向き直り、声を上げた。

「なあ、晴ちゃん! やっぱり残響に来ないか? 親友の凪咲と一緒にさ!」

 劇団員の視線が、一斉に晴に集まる。樹の吊り上がった眉、南雲のどこか諦めの滲んだ瞳、心配そうに目尻を下げる彗と奏の眼差し。

「二ヶ月後に、また公演を控えているんだ。松野に台無しにされた旗揚げをさ。で、晴ちゃんに主役をやってほしいんだ」

「へえ、私に?」

「君の魅力を最大限に引き出す、青春ど真ん中の熱き主人公だ!」

「あー……」

 強く力を持った井高の眼差しに、晴はわざとらしく頭を掻いて言った。

「それは惹かれますけど、今はカイルのキャラクターが気に入っちゃってるんですよね」

 おどけて振る舞いつつも、その瞳は、固い決意に裏打ちされた確かな光が宿っている。

「がっつり悪役! 私の新しい可能性に気づいちゃって!」

「……結局、松野の古い芝居に囚われたまんまだな」

「ええ。だから井高さん、私のこと突き放したんじゃなかったでしたっけ? 熱意ある人だなあ。それとも、私を呼ばないと、見栄えしない劇団なのかな?」

 井高の自信に満ちた目力に臆することなく、晴は肺いっぱいに息を吸い込んで答えた。

「せっかくのお誘いですが、私はこの劇団と共に、名を馳せると決めたんです!」

「ふーん……」

「それに、私は井高さんなんかより、ずっと大きいところを目指しているんですよ」

「は?」

「私の芝居を、光芒座の舞台を、全国に、世界に! 井高さんみたいに、個人的な復讐のために芝居してるんじゃないんで!」

 井高の目が一瞬細まり、冷たく笑った。

「世界に、ねえ……。こんなゴミ溜めに可能性を感じる人が、この先現れないことが残念だ」

「いい加減にしろ!」

 樹が再び声を荒らげる。

「部外者のお前に、今の光芒座の何が分かるんだ!」

「俺がなんの調べもなしに、単身乗り込んできたと思ってるのか? 樹」

「あ……?」

「お前らの秘密を、ここで暴いてやってもいいんだぜ」

「やめろ、井高!」

 南雲が狼狽えて叫んだ。同時に、彗がはっとして樹を見やる。硬直した彼の姿を、奏が不思議そうに見つめていた。

「やっぱり、知らねえ奴がいるんだな? 叩けばいっくらでも埃が出てくるぜ、この劇団は! そして、見切りをつけるという賢明な判断をした奴もいるんだ!」

 晴の隣に立っていた凪咲が、びくっと肩を震わせた。

「なあ、凪咲?」

 彼女の顔が、色を失っていく。

「彼女は、我らが残響の、照明スタッフなんだ」

「どういうことだ、凪咲……」

「どうしたんだよ? 最近顔出してくれねーじゃんか?」

 彼女のこめかみを伝う汗が、ぽたりと床に落ちた。

 晴は、凪咲の肩を抱いて叫ぶ。

「いやいや、もう残響には行ってないんでしょ? それに、参加したのは旗揚げ公演の手伝いだけ。結局中止になっちゃったんだし、ノーカンじゃん!」

 しかし、劇団員たちの訝しむ視線は集まったままだ。

 井高は一歩踏み出し、声を張り上げた。

「凪咲、言えよ! お前が残響を選んだ理由を!」

 身体の震えを伴った唇から、凪咲はぽろぽろと言葉をこぼし始めた。

「……あたしと晴の才能を活かせるのは、残響だけだって言われて……光芒座の成長を待ってる時間がもったいないって……」

「そんなのを鵜呑みにするほど、南雲さんを信用できなかったってのかよ!?」

「ち、違う……ただ、迷ってただけなの……」

 言い淀む凪咲を、井高は鼻で笑う。

「今さら、なんだ? お前が光芒座を見限ったのは正しい選択だ! 後ろめたい過去を芝居で誤魔化してる、こんな奴らの作る舞台を、誰が求めてるんだ!」


 その時だった。劇場の扉が、再び大きな音を立てて開いた。射し込む光を背後に、その人物のシルエットが浮かぶ。

 背の高い、少し撫で肩の身体。しかしその穏やかな出立ちの中に、威厳が垣間見える。

「俺が求めているさ」

「誰だ!?」

 影はゆったりと、客席の間を歩いて、舞台へと歩み寄る。照明の光を得たその姿に、晴は目を見開いた。

「内村さん……?」

 丸眼鏡の奥で細まる目は、井高を鋭く貫く。

「俺を忘れたか? 井高」

「なんで……お前が」

「神聖な舞台で出過ぎた真似はしないよう、俺は忠告したはずだぞ? 他人の秘密をひけらかす前に、自分の秘密を暴かれないよう、努力すべきだったな」

 井高はぎりりと歯を食いしばり、内村の視線に気押されるように、扉のほうへ後ずさっていく。

「だが、俺は穏やかな老人でな、今回のところは見逃してやるさ」

「ちっ……覚えてろ。この借りは必ず返してやる」

「おお、楽しみにしているよ。ぜひお前の芝居で返してくれ」

 井高は蹴飛ばすように扉を開いて、劇場を後にしていった。


 その瞬間、凪咲は糸を切られた操り人形のように、その場に崩れ落ちて、嗚咽を響かせた。

「ごめんなさい、あたし……」

「凪咲、気にするな」

 客席から舞台に歩み寄った南雲が、優しく彼女の言葉を制す。

「光芒座じゃ成長できないかもしれないって思わせた、座長の僕の責任だ」

「そんなつもりじゃ……!」

「いいんだよ。それでも、戻ってきてくれたんだもんな。凪咲がここにいる。光芒座の光を作ろうって、思ってくれたんだろ?」

 凪咲の目にまた涙が溢れ出す。言葉は嗚咽に変わっていたが、何度も何度も首を縦に大きく振っていた。

 南雲は柔らかな笑顔で、劇団員一人一人を見つめて言った。

「僕はいつだって、光芒座として名を馳せることを、そしてここに所属するみんなが、それぞれ名を馳せることを、本気で願ってる。そのために努力をしてきたし、これからもしていく。力は足りないかもしれない。だから……みんなの力を貸してほしいんだ」

「はい!」

 劇団員たちは声を揃えて、腹の底から轟くような返事を響かせた。


 内村は、踵を返して歩き出した。足早に劇場を後にするその背中を、鋭い足音で追いかける。

「待って!」

 すると、内村の足は、ぴたりと止まった。ゆっくりこちらを振り返るその目を、晴は真っ直ぐ見つめ返した。

 脳裏に蘇るのは、初めてと言葉を交わした時のこと。

「やっと、お話しできますね」

 彼は、にやりと微笑む。

「悪いが、俺は葵屋敷の人間だ。俺には俺の舞台がある。この劇団に関わるのは、今日限りだ」

 その言葉に、晴の口角は静かに上がる。彼女もまた、自分の目に力強い光が宿ったのを感じた。

「いつか、辿り着きますからね。あなたの舞台に」

「あまり勢いで大口を叩かないほうがいい、お前の悪い癖だ」

「私は本気ですよ」

「ほう、そうか。ま、期待はしないでおくよ」

 そう言うと、彼は人差し指の甲で、眼鏡のブリッジを押し上げる。

「お前のような小娘が、果たして辿り着けるかな」

 その瞳は、かつての謎めいた輝きを取り戻していた。


(完)

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