1・工房で紅一点なので後輩になつかれているらしい。
ブローシャ大公国の都、ウィーテ。
華やかさと欲望が入り混じった混沌の町。
その中心。
各種芸術家の工房が軒を並べる大通りに、当代きっての天才画家、ミリドの工房もあった。
工房に一歩足を踏み入れれば、広い作業場の左右に描きかけの絵がずらりと並んでいる。
入口に近いほど完成に近い作品であり、描かれているのは、聖母子像から貴族の肖像画までさまざまだ。
どの絵の人物も、現実の表通りを行きかう人たちより色鮮やかで生き生きしていて、いまにも動き出しそうに見える。
その、いちばん入口に近い場所で、イトは完成間近の肖像画と向きあっていた。
栗色の長い髪を紐で括り、リンネルのブラウスの袖を腕まくりして、うなじや手首を剥きだしにしながら、いかにも真剣な表情。
汚い路地裏でミリドに拾われてから十年。
骨ばかりだった体にもほどほどに(部分的に)肉がつき、背もそこそこ伸びて、二十歳になったイトは自他ともに認めるミリドの一番弟子だ。
「よしっと……あと一息」
令嬢の宝飾品を描き終え、絵から離れる。
首をぐるぐる回していると、すぐ後ろにこのあいだ入ったばかりの新人弟子が立っていた。
手にしているのは、素描の練習用の板だ。
「なに?」
イトから声をかけると、新人がびくっと身を竦める。
「あ……イトさんに素描を見ていただきたくて」
「いいよ。どれ」
忙しいんだけどなぁと、ちらっと思ったものの、後輩の面倒を見るのも姉弟子の役目だ。
木炭で描かれた素病だった。
女性の横顔。鼻が小さく、首筋はほっそりとして、唇は花びらのようにふっくら。
「ふうん」
「どう……ですか」
「うん。全然だめ」
新人弟子はショックを受けたようだった。
そんなに傷つかなくても。
ちょっと言い方が雑だっただろうか。
反省しつつも悪いものは悪いので。
「ぱっと見きれいに描けているけれど、もしもこの女の人を正面から見たら、三角柱に目鼻をつけたみたいに見えると思うよ。ほら、よく見て」
イトは新人弟子の若者に顔を近づけ、自分の眉間を指さしてみせた。
「目から鼻にかけてのラインは平らじゃなくて、骨の窪みがあるでしょう。そして、眉の下にも骨が入っていて、それは頬までぐるりとつながっているの。見ただけではわからないのなら、触って」
やや頬が赤くなっている若者の手をつかみ、イトの額から頬にかけて、順番に触らせる。
「ほら。骨がわかるでしょ。頬骨の上に重なるようにして、耳と口元をつなげる筋が入っているの。表面だけじゃなく、その下にあるものを理解して、描かなきゃ、唇も、ただ柔らかいだけじゃなくて…」
解剖学的な見地から、筋肉や脂肪のつき方から、毛の生える向きまで丁寧に教えてやっているのに、新人弟子は聞いているのかいないのか、メモも取らずに(糸が彼の手をつかんでいるからだが)、イトの顔を見つめてばかりだ。
「……と、言うわけなんだけど。わかった?」
「は、はい……。この手は一生、洗いません……」
「何言ってんの。汚れたときはちゃんと洗いなよ」
イトは呆れて、画板を新人弟子に返した。
「わかったら、兄弟子たちの顔を百枚スケッチしてから、また見せにおいで。もちろん自分の仕事をちゃんとした後に……って、何なの、きみたち」
いつの間にか、新人弟子の後ろに、十数人の兄弟弟子たちがずらっと列を作っている。
全員、いま描いたと思しきスケッチを握り締めているのは何なのか。
「イトさん、俺の絵も見て」
「添削してくれませんか」
「あわよくば、実地で解剖学を……」
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