天才画家の卵で弟子
ひぽたま
プロローグ・不気味な声の正体はわからずじまい(この時は)
パン屋の小僧に石、投げられた。
「おまえみたいなモンに見られたら、うちのパンがまずくなる」
って。
ただ見ていただけなんだけどな…。
でも、いいの。もう『見た』から。
イトは――イトって、わたしの名前だけど――ふらふらしながら、いつもの路地裏にたどりついた。
おなか、すいた。はやく食べたいな。あのおいしそうなパン。
ゴミと猫しかいない路地裏だ。
イトは手のひらで丁寧に地面をならす。まるでパン屋が板に粉を打つみたいに。
指でさっき『見た』パンの輪郭を描く。パンの粉を練るみたいに。
うずまき模様の線を入れる。練った生地でかたちをつくるみたいに。
焦げ目の陰をつける。生地が焼きあがっていくみたいに。
濃すぎた陰に砂をさらさら落として、光を入れる。パンがふっくらと焼きあがる。
いい匂いがしてきた。焼きたてのつやつやパン。
「いただきまー……熱ちっ」
パンの手に触れたとたん、指先に熱を感じて驚く。
「え……今回、すごくいい出来かも」
地面に描いたパンの絵。
香りが立つのはいつもだけれど、熱まで感じたのははじめてだ。
「もっと上達したら、いつか味までしたりして」
もちろん味は頭のなかで想像できるのだけれど、残念ながらいまのところ、イトが描きだせるのは香り――と、温もりまでだ。
「まあいいや。おいしそうだもん。いただきま――……」
ここからは空想の世界。
地面に描いたパンを手に取る空想。いい香りと温もりを両手に包みこむ空想。
そして大きな口を開けて、一口かじりつこうとしたとき……、
『本物にしたいか?』
声が響いた。
イトは固まる。
聞こえたのではなく、響いた。
地面についた膝の下から。暗く黒く重く、でもこの上なく魅惑的な声。
手のなかの空想のパンが消える。
「だれだよ、邪魔して」
せっかく焼きたてだったのに。
お腹はひもじいままだ。
さっきより香りが薄れた地面の絵に視線を落とすと、また、
『おまえの絵、本物にしたいだろう?』
「このパンのこと?」
頭にきたので、つい返事をしてしまう。すると声は嬉しそうに、
『そうだ、そのパンだ。焼きたての、ほかほかの、新作パン。おまえがパン屋で見ていただけなのに、石をぶつけられて追いやられたあのパン』
「パンパン言わないでよ。よけいにお腹がすくじゃないか」
『かわいそうなイト。恋人に捨てられた母親におまえも捨てられて、病気の猫のように死ぬのを待つしかない――……だが、おまえには才能がある』
「お喋りなんかする気分じゃないんだよ」
ちょっとでも香りが残っているうちに、このパンを食べてしまいたい。
もう声なんか無視しちゃっていいや。
空想をかきあつめて再び絵のなかのパンを取り、口を開く。急いで口に押しこもうとしたのに、
『そう、それ、そのパンだ』
邪魔すんな!
気が散ると、空想のパンはすぐに砕けて消えてしまう。
なにもない手を睨んでいるイトに、声は囁いた。
『悲しむな。絵はまた描けばいい――が、絵は、絵だ。いつまでも本物にはならない』
そんなことわかってるよ!
だけど盗みでもしなければ本物を手に入れられないから、せめて描いて、食べた気分を味わおうとしているのに。
『気分だけでは腹は満たされない。このままではおまえは飢え死にする』
だから、なんだよ。
腹が満たされなきゃ、気持ちだけ満たされるのはだめだっていうのか。
『だが、生き延びる方法がある。生き延びるだけではなく、この先どんな願いも思いのままになる方法だ――おまえの絵が、正真正銘の本物になればいい』
「……?」
『おまえの描いたパンは現実のパンになり、おまえの描いた黄金は本物の黄金になる。この世のすべてをわがものにできる力を、私が与えてやろう――ただ一つ条件がある。おまえがいつか私を描……』
「いらないよ、そんな力」
アホらしい。
声が黙った。断られると思っていなかったのだろうか、この傲慢。
イトはさっき描いたパンの絵を諦めて、再び地面をならしながら言った。
「絵は、絵だからいいんだよ。もしも本物のパンになったらだれかに盗られちゃうじゃないか。わたしの絵はわたしのなかにあるんだから、ずっとわたしのものなんだ。それ以上なんかなくていい」
ハハハハハ……。
声が笑った。うるさい。足元から響いていた声が、そのもっとずっと下、地獄に落ちていくみたいに遠ざかる。
『残念だ。ではいつか、おまえがこの力を欲するときまで、契約は保留にしておこう――……』
そして静かになる路地裏。
「……なんだったんだ、いまの」
白くならされた砂を見ながら、イトは呟く。
はやく、パンを描かなくちゃ。『見た』ものを覚えているうちに。
輪郭を描いて、生地をこねて……でも、うまく腕が持ちあがらない。
白いはずの砂が、ちかちか光って遠ざかっていく。
まずいな。もう、本物を何日も食べていないから……はやく描いて、いっぱい食べべなきゃ……いっぱい、パン……本物って、どんな味だっけ。
……忘れちゃった。
もう、見えなくなった。もう……描けないや……。
*
その夕方、新進気鋭の天才画家、ミリドは最低の気分で工房に帰るところだったそうだ。
「あーくそ、あの令嬢め……『あたくしの鼻はもっと尖っているはずですわ』だと? 鏡と比べてから文句言えってんだ、こんちくしょう」
納品日ぎりぎりに見せたのはミリドの落ち度かもしれないが、そのぶん細部まで完璧に仕上げたはずだ。
なのにモデルの令嬢の一言で描き直し…ばかりか、契約違反で報酬は半減…なにより腹立たしいのは、完璧な絵を削って直さなければならないことだ。
「冗談じゃねえぞ。俺様の完璧な絵を、あんなワガママのために壊させるかよ。あー、めんどくせえけど、最初から適当に目をつぶって描き直すか……お?」
酔っているうえ、頭に血がのぼっていたので、いつもなら気がつきもしない路地裏に足を踏みこんだ。
そして、
「おおっ?」
足元のパンを踏みそうになり、飛びあがる。
目をしばたたいて、よくよく眺めて、それが地面に描いたパンの『絵』だと気づくまでに数秒。
「なんだこりゃ。砂に描いてあんのか? 誰が描いたんだ。まるで本物……」
パンの隣にソーセージ。ベーコン。梨、いちじく、ケーキ……。
路地裏の地面や壁を埋め尽くす、食べ物の絵。
どれも砂や石で描かれただけなのに、匂いたつような、うまそうな。
そしてその絵の中心に、やせ細った子供が――イトが、倒れていたのだった。
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