第1章:理性の誕生
第1話 夜と再現
ep.1
壊れた原因が、まだ納得できない。
あの日の光景は、温度を失ったまま輪郭だけを残し、薄膜のように意識の裏側に貼りついていた。
──だから、今夜も走る。
息を吸う。
冷えた空気が喉から肺へ落ちるたび、そのどこかに金属が軋む気配が混じった。記憶の奥に沈んだ音が、呼吸のたびに微かに浮き上がる。
カーテンは閉めていなかった。
男子寮の四階。夜気を含んだ窓の外から、月の光がレース越しに床へと落ち、そこへモニターの青い光が重なってゆく。部屋の中央だけが淡く浮かび、周囲は静かな深度を湛えていた。
金属ベースに指を置く。
冷たさが皮膚の温度を吸い取り、掌の内側に緊張の針が一本通る。
アルミのペダルには、父の靴底の形がかすかに刻まれ、踏み込む角度すら記憶を宿しているようだった。黄ばんだケーブルの被覆に触れるだけで、時間が静かに巻き戻される。
――ブレーキの奥には、人の重さがある。
画面には海外製のレースシミュレーター。
ステージはニュルブルクリンク北コース。
父が「伝説のコース」と呼び、最後に挑んだ舞台。
光の粒が流れ、路面の継ぎ目が不規則に揺れる。視界の隅が震え、体が条件反射のように硬さを帯びる。
「Kallenhard, bridge right, Left 7──Blind entry」
ヘッドセット越しにスポットの声が落ちてくる。
声の抑揚が、まるで遠い夜の無線のように胸の底へ沈んだ。
クラッチを踏む。
ブレーキをわずかに残す。
シフターが掌に重さを返す。
動作はすべて、考えるより先に指先を通っていく。
アスファルトの継ぎ目を拾った瞬間、ステアが腕を叩き、肘の奥で骨が少し震えた。
画面の奥へ引き込まれていくような圧力。
息が浅くなり、目の奥が熱を帯びる。
出口でアクセルがわずかに遅れた。
その一拍だけで、映像は白く弾け、衝突音が室内の空気を震わせた。
玲は歯を食いしばり、即座にリスタートを押す。迷いはなかった。
灰皿の上で、ハイライト・メンソールが細く煙を上げている。
たしかに父の匂いだった。
煙はモニターの光を受けて淡い帯になり、静かに漂う。
その揺れの奥から、昨夜の声が小さく蘇る気がした。
――理不尽に負けたままでは終われない。
煙の向こう側で、低い響きだけが残る。
玲はタバコをくわえ、短く吸いこむ。
肺に入った熱が、思考のざらつきを一度だけ平らにする。
再びスタート。
今度は早めにブレーキを終わらせ、荷重を前へ寄せ、フロントを逃がす。
緑の雪壁のようなガードレールが迫り、ステアを戻すわずかな瞬間、スロットルが床へ向かって落ちた。
スピーカーが吠えた。
レーシングタイヤが路面を掴む音が、部屋の空気を震わせる。
振動が椅子の脚を伝い、足裏の皮膚の奥に届く。
――これだ。
ゴールラインを通過。
右上にタイムが点滅する。
“World Top 100 – GAZOO Racing 86 / Nürburgring Nordschleife”。
数字を見つめても、胸の奥は静かだった。
速さではない。
再現の密度が、わずかな確信となって呼吸の底に沈む。
モニターの青がまぶたの裏に残像を描く。
父が見た“ロマンの構造”──その手前に、手が届きかけている気がした。
ヘッドセットを外すと、耳の中に残響だけが柔らかく残った。
背もたれに体を預けると、足裏にはペダルの反力がまだこびりついている。
掌はいくぶん汗ばみ、金属の匂いがほのく漂った。
――攻めるんじゃない。
数字の中で、生きるんだ。
モニターの向こうでは、白いテストカーがアスファルトを走り続けていた。
映像を消しても、エンジン音の震えだけが耳の奥に残る。
いつの間にか眠っていたらしい。
瞼を上げると、光はすでに白く、窓際の空気が朝の温度へ変わっていた。
机の上のペットボトルには細かな結露。
灰皿のタバコは根元で静かに塩のように崩れている。
ドアがノックもなく開いた。
「おはよー……って、うわ。お前またハンコン握りっぱなしで落ちたのか」
寝癖の残る髪を手ぐしで整えながら、男が顔を出す。
薄手のグレーパーカーにツナギ。足元は白いソックス。
気だるさを纏いながらも、どこか整って見える立ち姿だった。
佐伯慶介──玲のルームメイトであり、同じ整備士学校に通う二年生。
慶介は灰皿をつまみ、カーテンを開ける。
「……ハイメン、根元まで燃やしてるじゃねえか。危ねえよ」
「寝てない。走ってた」
「走ってた? 峠か?」
「違う。ニュル」
慶介は一瞬だけ黙り、口元をゆるめる。
「……あぁ、ゲームのほうね。お前、マジでストイックだな」
「理屈は同じ」
モニターに残る数字を見て、慶介が口笛を鳴らす。
“World Top 100”。
「おいおい、トップ100? ガチじゃん」
「偶然だよ」
「偶然で取れるもんか」
慶介は机の上の鍵束を拾い、軽く放った。
「ほら、朝メシ行こう。ドライブスルーで朝マックな。俺の奢りで」
玲はPCの電源を落とし、無言で立ち上がる。
ペダルの踏み面に触れると、アルミの冷たさがまだ夜を少しだけ残していた。
玄関へ向かう途中、カーテンが揺れる。
朝の光が差し込み、床に白い帯を描いた。
玲は一度だけ振り返る。
電源ランプの消えたモニターに、薄い影が揺れていた。
白い帯の端に、夜がわずかに滲んでいた。
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