整備士は、壊れずに速くを信じたい。

プロローグ

　閉鎖三十分前のアナウンスが、峠のスピーカーから短く響いた。

　外気九度。フェンスの向こうで整備班のライトが、湿った路面をゆっくりと撫でていく。

　ここでは二十一時を過ぎたら、一台も走れない。

　風間玲は、メーターの針を確かめながら短く息を整えた。

　──法の内側で、限界を試せる。

　白線に沿って街灯の光が落ち、路面には夜露が薄く浮いていた。

　風が尾根を渡り、フェンスを鳴らす。

　枝先の蕾がライトを受け、淡く紅を帯びる。

　最終セクション。

　左の中高速から、ロングストレートへ抜ける構成。

　マグネタイトグレーメタリックの86が静かに姿勢を沈めた。

　スロットルは一定。ブレーキをひと瞬だけ。

　荷重が前に移り、ステアを切るとタイヤが低く鳴く。

　サスペンションが一度、呼吸を漏らすように沈む。

　路面の目地をいなしながら、外へ膨らむ力を吸い取っていく。

　──入口で終え、出口で足さない。

　ただ、再現可能な限界を知るために。

　四速へ。

　自然吸気の音が澄み、ヘッドライトの先で蕾の並木が流れた。

　チェックラインの光電が一度だけ点滅する。

　悪くない。だが、まだ詰められる。

　展望台の分岐にウインカーを入れ、白線の内側に滑り込む。

　ブレーキを踏み切り、パーキング。

　アスファルトの湿気と、わずかに焦げたゴムの匂いが残った。

　奥の区画。冷たい光を返すディープマルーンのZ。

　異様に低いフェンダーライン、リア下部に覗くデフクーラー。

　どこか、人の体温を残したような静けさが漂っていた。

　塗装の艶の下に、まだ熱を帯びた金属の呼吸がある。

　その向こうに、影がひとつ。

　それはメーカーの完成形ではなかった。

　だが、その整合のとれた“機能の美”が、持ち主の意思をそのまま映していた。

「悪くなかったよ、いまの」

　声がした。低く乾いた、静かな温度を帯びた声。

　玲が振り向くと、Zのフェンダーに女が腰を預けていた。

　姿勢は静かで、重心を金属に預けるようだった。

　風が髪を揺らし、月光がその輪郭を淡く縁取る。

　遠くで、整備班のトラックがエンジンをかけ直す音が一瞬だけ返ってきた。

「……でも、中腹の右。少し妥協したでしょ？」

　中盤の複合。白線が切れ、夜露の浮く右コーナー。

　見抜かれている。

　恐怖が、ほんの一瞬、ステアを遅らせた。

　悪くない判断。だが確かに攻めなかった。

　女は短く笑った。

「最初、私も踏めなかった。あそこだけ、構造が信用できなくて。

でも、どっかで踏まなきゃって思った。──じゃないと、一生、あの理不尽に負けたまま終わるから」

　その言葉に、玲の胸の奥がわずかに軋んだ。

　ステアを握る手の内側に、微かな汗が滲む。

　──理不尽。

　父を失った夜、最初に浮かんだ単語。

　正確に構造を確かめる。それが今夜ここにいる理由だった。

　玲は黙って頷いた。

　風がフェンスを鳴らし、蕾の並木が小さく揺れる。

「名前、聞いてもいい？」

「……風間玲」

「秋月真希。──真希でいいよ」

　彼女はルーフを軽く叩き、ドアを開けた。

　セルが回り、3.7リッターV6が目を覚ます。

音は咆哮ではなく、低回転域から空気を切り裂くような緊張を帯びていた。

　テールランプが赤く灯り、Zは振り返らずに下っていく。

　光が消えると、風の音だけが残った。

　玲は自分の86に視線を戻す。

　ホイールが街灯を拾って鈍く光る。

　──左中速の出口、アクセルの踏み込みが一瞬遅かった。

　あと二キロ、乗せられる。

　ポケットに手を入れ、蕾の並木を見上げた。

　枝の先で花芽が夜気に赤みを帯びている。

　ドアを開け、シートに身を沈める。

　スタートスイッチを押す。

　自然吸気のエンジンが静かに回り始めた。

　ライトが白線をなぞる。

　──また来るでしょ？

　風の向こうで、さっきの声がした気がした。

　玲は答えず、アクセルをわずかに踏み込む。

　タイヤを鳴らすことなく、86は下りへと滑り出した。

　白い光が、蕾の枝に一瞬、春の色を残した。