ep.2
二人は簡単に身支度を済ませ、学生寮の外階段を降りた。
朝の空気は澄んでいて、まだ指先にひんやりとしみる。
雲ひとつない空の下、デザートカーキのスバルXVが低く乾いた音を響かせて目を覚ます。
ルーフの水滴が朝日を受け、細かく光った。
「助手席どうぞ。今日は特別にシートヒーター付きで」
「本革シートにヒーターとは……贅沢な学生だな」
慶介の軽口に、玲は淡々と返す。
暖房の風が足元に当たり、シートからじんわりと熱が背中へ伝わる。
「今日の座学、絶対眠くなるわ」
「二級シャシだろ。あの先生、声が低すぎて催眠効果あるからな」
「褒めてんのか?」
「まあ、そう聞こえるなら」
そんなやり取りのまま、XVは峰岡の住宅街を滑るように抜けていく。
慶介はウインカーを右へ上げ、ファストフード店のドライブスルーへ車を寄せた。
「ソーセージマフィンセットとホットコーヒー。あとフィレオフィッシュ単品とアップルパイひとつ」
スピーカー越しに確認の声が返り、車は前へ進む。
窓を少し開けた瞬間、揚げ油とコーヒーの香りが入り込み、玲の呼吸がわずかに緩んだ。
「朝から揚げ物かよ。昨日、胃がもたれるって言ってただろ」
「朝だけは別腹なんだよ。フィレオは正義」
「理屈になってないぞ、それ」
玲は、目元だけわずかに緩めた。
店員から温かい紙袋を受け取ると、車内に香ばしい匂いが広がった。
FMのジングルが流れ、街の音が車内へ滲み込む。
コーヒーの蓋を開けると、立ち上がる湯気がちょうどいい温度で指先に触れた。
「……朝はこれだな」
「安定のチェーン品質。学生の味方ってやつだ」
慶介は軽くハンドルを切り、通りへ戻る。
通勤車両が列をつくり始め、坂道には学生の群れ。
街のざわめきが、現実を押し戻してくるようだった。
「ここまで来ると、一気に現実感出るよな」
「授業サボる理由、いくつ考えた?」
「五つ。でも全部今朝思いついたやつ」
「よくそんなに思いつくよな」
慶介が笑い、車は交差点へ差しかかる。
信号が青に変わる。
左にウインカーを出し、木立に囲まれた道へゆっくり車体を傾けた。
鹿坂の坂道に入ると、視界が一気に開けた。
玲は自然と少し首を傾ける。
朝日に染まる常磐川と青雲市街が、眼下に広がった。
「……こうして見ると、意外と綺麗だな」
窓越しの景色に目を向けたまま、玲が小さく呟く。
「あー。運転してると景色見る余裕ないもんな」
「そう。86は目線が低いから、余計に」
「なるほどな。俺はあんまり意識したことないけど」
慶介は笑い、軽くブレーキを踏んだ。
「ていうか今日、遊星ギアの分解だったっけ?」
「そう。減速機の原理も復習しとけよ。あの先生、図解多いから」
「俺さ……整備士より営業マン向いてる気してきたわ」
「早すぎるだろ。まだ四月だぞ」
「だってさ、ギアの組み合わせとかパズルだろあれ」
「パズルじゃない。力の流れだ。組み合わせが見えると面白い」
玲の声に、わずかに熱が宿る。
──力の流れを理解できれば、あの“理不尽”にも必ず理由がある。
慶介はフィレオを噛む動きを止め、横目で玲を見た。
夜の残響をまだ宿したような、静かな目つきだった。
「……やっぱお前、変態だよな。理屈優先系の車オタク」
「褒め言葉として受け取っとく」
常磐川にかかる橋へ入った瞬間、川面の光がフロントガラスに跳ねた。
玲の視界がふっと白く反転する。
——八年前の冬。
父が搭乗したのは、チューニングショップのデモカーとなるJZA80スープラだった。
本来は雑誌企画の走行会で、病欠したプロの代走。
普段はだらしなく優柔不断なくせに、レーシングスーツを着た父は、職務外でも常に完璧を求める職人だった。
最終アタック。
最終コーナーへの進入。
およそ時速二百キロ。
ステアリング操作は正確だった。
だが車体は突然、その入力を拒絶した。
右フロントのナックル破断。
制御を失ったスープラは、そのまま壁へ叩きつけられた。
衝撃音すら、玲の記憶では「エネルギー減衰の破綻」という数字でしか残っていない。
後に知った事実——
原因は試作品ナックルの溶接強度不足。
だが報道は「単独事故」で処理され、データは関係者によって抹消された。
父の技術を砕いたのは、たった一つの人為的欠陥。
玲の“構造への執着”は、この隠された事実から始まっている。
感情を捨てたのではない。
感情を、理性の中へ置き直しているだけだった。
……気づけば、朝の車内に戻っていた。
コーヒーの香り。
シートヒーターの温度。
慶介の鼻歌。
すべてが、ゆっくりと輪郭を取り戻す。
前方に、青雲モビリティ大学校の校舎が見え始めた。
車内の空気がわずかに締まる。
「今日も長い一日になりそうだな」
「……まあ、いいさ」
慶介の言葉に、玲は小さく鼻を鳴らした。
校門を潜る。
朝日がボンネットを滑り、金属の線を描く。
エンジンの微かな振動だけが、手のひらの奥に残っていた。
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