第12話:後悔と増殖する選択肢の部屋

カフェ「ルナ・マーレ」の店内は、朝だというのに、妙にざわついていた。


壁の古時計は、相変わらず動かないが、その文字盤には、昨日見た「日常の断片」が薄い残像として残り、ハルカの脳内では、どこか懐かしいような、しかし痛みも伴う記憶の欠片が時折よぎる。

心のBGMは、その記憶に呼応するように、微かな不安定さを保っていた。


ミサキは、カウンターでコーヒーカップを拭きながら、しきりに額に手を当てている。彼女の心のBGMは、何かを思い出そうと焦っているかのように、高速でデータを検索する音を立てていた。ユウトは、店の隅で、昨日作った「記憶固定装置」を改良しようとしているが、集中できていない様子だ。彼の心のBGMは、混乱と好奇心が入り混じり、落ち着かない電子音を立てていた。


その日、リョウはいつもの窓際の席にはおらず、カフェの奥にある、昨日まではなかったはずの小さな木製の扉の前に立っていた。その扉は、まるでそこが以前から存在していたかのように自然で、しかし彼らが来る前にはなかった、物理的な「変化」だ。

彼の心のBGMは、普段の冷静な分析音の中に、深い苦悩と、何かに怯えるような響きが混ざっていた。


「リョウくん? その扉、いつからあったの?」


ハルカが、不思議に思って声をかけた。

ナツミが、心配そうにリョウを見つめている。

彼女の心のBGMは、優しいシナモンの香りの中に、微かな哀惜と、共感の念が混ざっていた。


リョウは、ハルカの問いに答えることなく、ゆっくりと、その木製の扉に手を伸ばした。彼の指が、扉の取っ手に触れた瞬間、カフェ全体が、まるでガラスが割れるかのような、乾いた音を立てた。そして、扉の周囲の壁に、半透明の文字が浮かび上がった。


「もしも、あの時、別の選択をしていたら……」

「後悔:手を差し伸べなかった未来」

「後悔:言葉をかけなかった未来」


「っ……!」


リョウは、その文字を読み、突然、苦しそうに顔を歪ませた。

彼の心のBGMは、まるで無数の後悔の念が同時に叫び出すかのように、激しい不協和音へと変化した。


その音に呼応するように、カフェの空間に、同じような木製の扉が、次々と増殖し始めた。壁、床、天井、ありとあらゆる場所に、同じデザインの扉が不規則に、しかし無限に広がっていく。


「うわあああ! なんだこれ!? ドアだらけじゃん!」


ユウトが驚いて叫んだ。

彼の心のBGMが、混乱と興奮で高鳴る。

ミサキは、増殖する扉の前に立ち尽くし、その現象を高速で分析しようと試みていた。


「これは……リョウの『未来の可能性』のバグが、彼の『後悔』に反応して、物理的に具現化しているわ!」


ミサキの心のBGMが、警告と解析の音を立てる。

ハルカの脳内では、その無数の扉の奥に、それぞれ異なる「未来」が広がっているかのような、奇妙な感覚に襲われる。


それは、「もしも」という無限の選択肢が、目の前に突きつけられたような感覚だった。


リョウは、その増殖する扉の群れに囲まれ、膝から崩れ落ちた。

彼の瞳は、もはや現実のカフェを映しておらず、無数の「もしも」の未来がフラッシュバックしているかのようだった。


「だめだ……全てが……歪んでいく……私の選択が……」


リョウの声に、絶望が滲む。

彼の「未来の可能性」というバグは、本来、最も効率的な解を導き出すためのものだった。しかし、彼の心の奥底に眠っていた「後悔」という感情が、その能力を暴走させ、無数の「選ばれなかった未来」を具現化させているのだ。


彼にとって、不確実性だけでなく、「取り返しのつかない後悔」もまた、最大の恐怖なのだろう。


「リョウくん! 落ち着いて!」


ハルカは、増殖する扉の合間を縫って、リョウの元へ駆け寄った。

彼女の「共感」の心が、彼の激しい「心のBGM」に同調しようと試みる。


頭がズキズキと痛むが、ここで引くわけにはいかない。


「このままじゃ、カフェが『後悔』で埋め尽くされて、私たちも動けなくなっちゃう!」


ミサキが叫んだ。彼女の心のBGMは、事態の深刻さを告げる。


「ユウトくん、この増殖する扉を、何か止める方法はない!?」


ハルカはユウトに問いかけた。

ユウトは、増殖する扉を見て、何かを閃いたかのように目を見開いた。

彼の心のBGMは、混乱の中から、新たな発明のひらめきを見つけ出したかのように、予測不能なリズムを刻み始めた。


「そうだ! 『選択肢の扉』なら、『正しい選択肢』で閉じればいいんだ! 俺の『未来案内装置』で、リョウの『後悔』を『希望』に変えてやる!」


ユウトが、手元にあった廃材と、何かのパーツを組み合わせ、奇妙な形の「鍵」のような装置を組み立て始めた。


ナツミは、リョウの隣にそっと座り、彼の震える手に触れた。

「リョウさん、どんな選択にも、意味はあります。後悔しているだけでは、何も変わりませんよ」

彼女の優しい声が、リョウの耳に届く。彼の心のBGMの不協和音が、ほんのわずかに弱まる。


ハルカは、リョウの「心のBGM」にさらに深く同調した。

彼の脳内は、「もしも」の未来の選択肢が無限に広がり、彼自身を雁字搦めにしていた。その根源にあるのは、「あの時、最善を尽くせなかった」という自責の念だ。


「リョウくん、未来は、常に『今』の選択で変わっていくものだよ。どんな選択にも、意味がある。そして、その『後悔』も、リョウくんを強くするためのものなんだよ!」


ハルカの声が、リョウの脳内に響く。

同時に、ユウトが完成させた「未来案内装置」を、最も近くにある扉の一つにかざした。鍵のような装置が、扉の表面に触れると、その扉から、淡い光と共に、別の「未来」の映像が薄く映し出された。それは、リョウが「後悔」している未来とは異なる、別の「可能性」としての未来だった。


「これ……リョウの『希望』の未来……!?」


ミサキが、その映像を見て、驚愕したように呟いた。彼女の心のBGMが、ポジティブな解析音に変わる。


リョウは、その光景を呆然と見つめた。彼の瞳に、微かな希望の光が戻る。


「……可能性は……消滅しない。選択は……常に、存在する……」


彼の心のBGMには、これまでになかった微かな「肯定的な調和」が加わっていた。それは、完璧な解決ではないけれど、「後悔」の先にある「可能性」を受け入れた、新しい音色だった。


ユウトは、次々と「未来案内装置」を増殖する扉にかざしていく。そのたびに、扉から「希望」の映像が放たれ、一つの扉が光を放って消滅する。そして、カフェを埋め尽くしていた無数の扉が、一つ、また一つと消え去っていった。


カフェの歪みは収まり、店内は元の状態に戻る。彼らの周囲を埋め尽くしていた扉は消え、残ったのは、元々あった奥の小さな木製の扉だけだった。


「リョウくん、大丈夫!?」


ハルカが、ゆっくりと立ち上がったリョウに声をかけた。彼の顔には、疲労の色が濃いものの、以前のような絶望的な表情は消えていた。


「……感謝する。君たちのおかげで、再び、論理の海に戻ることができた」


彼の言葉には、わずかながら、感情が乗っているようにハルカには聞こえた。


「いやー、リョウの脳内、奥が深すぎだろ! でも、これでまた一つ、俺の天才的発明が爆誕したわけだ!」


ユウトが目を輝かせて「未来案内装置」を抱え、ミサキは呆れたようにため息をついた。


「あんたの天才には、呆れるばかりよ。でも、おかげで助かったわ。それにしても……」


ミサキは、残された奥の小さな扉を見つめていた。その扉の表面には、新たな、しかし漠然とした「誰かの顔らしきもの」が、薄く浮かび上がっているように見えた。


ナツミは、カウンターの奥で、静かに温かいココアを淹れていた。

彼女の背後には人影はなかったが、ハルカには、彼女の心のBGMに、「後悔を乗り越えた者への、静かな祝福」が宿っているように聞こえた。


奥の席で静かに事態を見守っていたタカハシ部長は、コーヒーカップを静かに置いた。彼の心のBGMは、変わらぬクラシック音楽だったが、その旋律には、「全ての歯車が噛み合い始めた」かのような、静かな満足感が込められているようだった。


「……『後悔』は、過ぎ去った時間への執着だ。しかし、それを『可能性』として昇華させる時、新たな『道』が開かれる。

君たちの『バグ』は、その『道』を照らす灯となるだろう」


彼の言葉は、彼らに向けられたものか、それとも自分自身に語りかけているのか、定かではなかった。


そして、彼の視線は、奥に残った小さな扉に薄く浮かび上がった、「誰かの顔らしきもの」に静かに向けられていた。


(つづく)

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