第11話:消える身体感覚と日常の残像

カフェ「ルナ・マーレ」の店内は、奇妙なほど静まり返っていた。


昨日、古時計の「秒読み」を止めた達成感とは裏腹に、タカハシ部長の「次なる『歪み』は、君たち自身の『失われた日常』に関わることになる」という言葉が、ハルカたちの脳内に重くのしかかっている。


壁の古時計は、再びピタリと止まったままだが、その文字盤の真鍮には、ぼんやりと霞がかかったような、見慣れない風景の残像が薄く浮かび上がっていた。

ハルカの心のBGMは、何か大切なものを探し求めるかのように、微かな不安と期待を伴って鳴り響いている。


ミサキは、カウンターでコーヒーを淹れていたが、手が滑り、熱いカップを取り落としかけた。しかし、驚くべきことに、その手が熱さを全く感じていないことに気づき、眉をひそめた。

彼女の心のBGMは、いつもの解析音に、不審な疑問符が混じっている。ユウトは、店の隅で新しい発明品を組み立てていたが、工具を握る指先に、奇妙な痺れを感じているようだった。


「なんかさ、最近、あんまりお腹空かないんだよなー」


ユウトが、突然、ぼんやりと呟いた。彼の心のBGMは、どこか間の抜けた電子音を立てている。


「言われてみれば……私も、別に喉乾かないかも」


ハルカも、その言葉に同意した。

このカフェに来てから、疲労や空腹、痛みといった身体感覚が希薄になっていることに、今さらながら気づかされる。それは、慣れてしまっていた「日常」の、新たな違和感だった。


その瞬間、カフェの天井にある満月のステンドグラスから、ぼんやりとした、しかし確かな光景が映し出された。それは、彼らがこのカフェに来る前の、「日常の断片」だった。どこかのオフィスで忙しなく働くハルカの姿、賑やかなイベント会場でプレゼンをするユウト、図書館で分厚い本を読み込むミサキ、そして、病院の廊下で誰かと話すナツミの姿が、次々と、しかし断片的に、ホログラムのように浮かび上がっては消えていった。


「これ……私たちがこのカフェに来る前の……」


ハルカの脳内に、激しい頭痛と吐き気が襲いかかった。彼女の心のBGMが、まるで過去の記憶が無理やり引き出されるかのように、激しく乱れた。


「うわあああ! これ、俺がプレゼンしてる時のやつじゃん! めっちゃくちゃ緊張してたけど、ドヤ顔してるな、俺!」


ユウトが、映し出された自身の姿を見て、興奮したように叫んだ。しかし、その顔色は、どこか青ざめている。彼の心のBGMは、高揚感の中に、拭い去れない不安が混ざっていた。


「私の……研究室……? こんなところで、なぜ……」


ミサキは、映し出された自身の姿に、困惑したように呟いた。彼女の心のBGMは、混乱した解析音を立てている。


ナツミは、病院の廊下の映像を見て、ふと、その瞳を曇らせた。彼女の心のBGMは、優しいシナモンの香りに、微かな悲しみが再び混ざり始める。


リョウが、静かに目を開いた。彼の眉間には深い皺が刻まれているが、その瞳は、何か確信を得たかのように鋭い。


「我々の『身体感覚の希薄化』は、この世界の『現実』からの乖離を示している。そして、今映し出されている『日常の残像』は、その乖離の『原因』……」


リョウは、壁の古時計に浮かぶ紋様と、ステンドグラスの映像を交互に見つめながら呟いた。彼の心のBGMは、冷静な分析音の中に、避けられない真実を示唆するような重々しさが混ざっている。


「このままだと、私たちの『現実』が完全に曖薄になってしまうわ! そして、このカフェの『現実』も、歪んでしまう!」


ミサキが焦ったように叫んだ。カフェ全体が、まるで幻影の中にいるかのように、ぼんやりと霞がかっていく。床や壁の輪郭が曖昧になり、彼らの手足が、透けて見えるかのように薄く感じられる。


「みんな、この『日常の残像』をどうにかしないと! このままじゃ、私たち、自分が誰だか分からなくなっちゃう!」


ハルカが、必死に声を張り上げた。彼女の脳内に、もうすぐ全てが消え去ってしまうような、根源的な恐怖が募る。


「ユウトくん、この曖昧な映像を、何か固定できる装置は作れない!?」


ハルカはユウトに問いかけた。

ユウトは、壁に映る自分の姿を見つめ、一瞬、戸惑った表情を見せたが、やがて目を輝かせた。彼の心のBGMは、混乱の中から、新たな発明のひらめきを見つけ出したかのように、予測不能なリズムを刻み始めた。


「ミサキ、これらの断片的な映像から、何か共通点やパターンを見つけられない!?」


ミサキは、すでに高速で映像の情報を処理し始めていた。彼女の心のBGMは、異常な情報量に耐えながらも、パターンを見つけ出そうとする。


「リョウくん、この『日常の残像』が、私たちの『バグ』とどう影響し合ってるのか、解析して!」


リョウは、静かに頷いた。彼の心のBGMは、現象の背後にある「真実」を探るかのように、さらに深く分析を進めていく。


数分後、ユウトが、手のひらサイズの「記憶固定装置」を完成させた。それは、複雑なレンズと、いくつもの小さなセンサーが組み合わさった、奇妙なデザインだった。


「よし! この『記憶固定装置』で、みんなの記憶をロックして、この曖昧な日常の残像を鮮明にするぜ!」


ユウトが装置のスイッチを押した。すると、装置から光の筋が放たれ、カフェ全体に広がる。その光は、ステンドグラスの映像に触れると、ぼやけていた輪郭がはっきりと鮮明になり、色彩を取り戻していく。そして、その映像から、小さな文字が浮かび上がった。それは、映像に写っている日付や場所、そして、人々の名前らしきものだった。


ミサキは、その文字を読み取り、驚愕したように目を見開いた。

「これ、私たちの本名と、いた場所……! 私、〇〇大学の研究室にいたって……!」


ミサキの心のBGMが、衝撃的な真実を前に、高速で解析する音が混ざりながらも、どこか呆然とした響きを帯びる。


リョウは、壁の古時計の紋様と、映し出された映像、そしてそれぞれの「バグ」の関連性を完璧に理解していた。彼の心のBGMは、「全てのピースがはまった」かのような、静かな満足感に満ちていた。


「我々の『身体感覚の希薄化』は、この世界の『仮初の現実』を示唆していた。このカフェは、我々が『現実』から切り離された後、『意識』を繋ぎ止めるための『揺りかご』だ」


リョウの言葉が、カフェに響き渡る。

彼らがここにいるのは、単に「招かれた」だけでなく、「現実」から切り離されてしまった自分たちの「意識」を守るためだったというのか。そして、この「日常の残像」は、その「揺りかご」が崩れかけているサインなのだ。


ユウトの『記憶固定装置』は、曖昧だった映像を鮮明にし、その中の情報が、彼ら自身の「現実」の記憶と、少しずつ繋がり始める。


ハルカは、自身の頭痛が収まっていくのを感じた。そして、自身の映し出された映像から、見慣れない『通行止め』の標識と、事故現場の断片が、より鮮明に浮かび上がった。


「私の、あの事故の記憶……もっと鮮明になってる……!」


ハルカの心のBGMは、不安の中にも、真実に近づいている確かな手応えを感じさせていた。


カフェの歪みは収まり、店内は元の状態に戻る。しかし、彼らが感じていた「身体感覚の希薄化」は、まだ完全に元に戻ったわけではないようだった。


「これで、一旦は落ち着いたみたいだけど……」


ミサキが、複雑な表情で言った。


ユウトは、得意げに装置を抱えていたが、すぐに「あれ? 俺、何作ったんだっけ?」と首を傾げた。


リョウは、静かに壁の古時計を見つめていた。その表情には、「全てを理解した」者の重々しさが浮かんでいる。


ナツミは、カウンターの奥で、静かに温かいお茶を淹れていた。彼女の背後には人影はなかったが、彼女の心のBGMには、「現実と非現実の狭間」で生きる者としての、静かな覚悟が宿っているように聞こえた。


奥の席で静かに事態を見守っていたタカハシ部長は、コーヒーカップを静かに置いた。彼の心のBGMは、変わらぬクラシック音楽だったが、その旋律には、「避けられない真実」への覚悟と、「若者たちへの静かな期待」が込められているようだった。


「……君たちの『現実』が、少しずつ形を取り戻し始めた。

しかし、それは同時に、『この世界』との『境界線』が曖昧になることを意味する。次に起こる『歪み』は、より個人的な、君たちそれぞれの『後悔』に関わることになるだろう」


彼の言葉は、彼らに向けられたものか、それとも自分自身に語りかけているのか、定かではなかった。


そして、その視線は、カフェの壁に、新たに薄く浮かび上がった、それぞれのキャラクターの「過去の影」に向けられていた。


(つづく)

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