第13話:ナツミの「哀しみ」と開かずの扉

カフェ「ルナ・マーレ」の店内は、昼下がりだというのに、いつもより静寂に包まれていた。


先日のリョウの騒動で増殖したはずの選択肢の部屋は、今は跡形もなく消え、元の壁がそこにある。壁の古時計は、僅かに傾いたまま、相変わらず止まっている。


ハルカの脳内は、リョウの「後悔」の波紋がまだ残響しているかのようだった。

自分の「心のBGM」も、彼らのバグが引き起こすカフェの異変に呼応するように、微かに波打っている。


「ナツミさん、今日はお客さん少ないですね」


ハルカがカウンターのナツミに声をかけた。

ナツミは、いつものように穏やかな笑顔でココアを淹れている。

その「心のBGM」は、甘く温かいシナモンの香りがする。

だが、今日のその香りは、どこか薄く、そして僅かに悲しみを帯びているようにハルカには感じられた。


「ええ、そうですね。でも、こんな日も、たまにはいいものです」


ナツミはそう答えたが、その視線は、カフェの奥にある、古びた木製の「開かずの扉」へと向けられていた。その扉は、カフェの奥の壁に不自然なほど馴染んでおり、まるで最初からそこに存在していたかのように見えるが、ハルカたちがこのカフェに来て以来、一度も開かれたことはない。


ユウトは新しい発明品のスケッチをしていた手を止め、興味深そうに扉を見つめる。


「あの扉、一体何なんだろうな?俺、いつも開けようとするんだけど、どうしても開かないんだよな」


ミサキはスマホの画面から顔を上げ、冷たい視線で扉を一瞥した。


「ただの物置じゃないの?大袈裟な」


その時、カフェの照明がチカチカと点滅し始めた。

同時に、ナツミの背後に、昨日よりもはっきりと、薄い半透明の人影がゆらめき始めた。それは、まるで霧が立ち込めるように現れ、ナツミの動きに合わせて揺れ動く。


「ナツミさん、う、後ろに……!」


ハルカが思わず声を上げたが、ナツミは気づかないふりをするように、ぎゅっと目を閉じた。

彼女の心のBGMは、温かいシナモンの香りが瞬く間に薄れ、遠くでサイレンが鳴り響くような、切迫した音に変わっていった。


「また、アイツらが暴れてんのか!?俺の発明品が反応してるぜ!」


ユウトが「ハッキング探知アーム」を扉に向けてかざすと、アームのアンテナ部分が激しく点滅し始めた。カフェ全体が、ナツミの心のBGMに呼応するように振動し、壁の絵画が歪み、床がきしむ。


リョウが、いつもの瞑想状態から目を開けた。彼の眉間には深い皺が刻まれている。


「この人影は、ナツミの『バグ』が引き起こしている。そして、あの扉は……ナツミの『忘れたい記憶』への、唯一の入り口だ」


リョウの心のBGMは、高速で情報を分析する音を立てていたが、その音には、これまでになかった微かな「哀しみ」が混じっていた。


「忘れたい記憶……?」


ハルカが呟くと、ナツミの背後の人影が、さらに濃く、鮮明になっていく。それは、まるでかつてそこに存在した誰かの姿を写し取ったかのようだった。その人影は、ナツミが扉から目をそらすたびに、苦しそうに揺れる。


「やめて……見ないで……あの子を、見ないで……!」


ナツミは、震える声で懇願するように言った。

彼女の心のBGMは、悲鳴にも似たサイレンの音に変わっていく。

カフェの奥の「開かずの扉」から、冷たい風が吹き出し、店内の空気を凍りつかせる。


「ナツミさんのバグは、『過去』か……!」


ハルカは、ナツミが抱える悲しみの深さを感じ取った。

ユウトが手にしていたスパナが、次の瞬間には、古びた鍵に変わっていた。

それは、まるで「開かずの扉」にぴったり合うかのように、不思議な形をしている。


「これは……! ナツミのバグと、俺のバグが共鳴したのか!?」


ユウトが鍵を握りしめ、驚きの声を上げた。

彼の「忘却」のバグが、ナツミの「忘れたい記憶」と呼応し、その鍵を生み出したのだ。


「ナツミさん、この扉、開けましょう!」


ハルカはナツミに向かって言った。だが、ナツミは首を横に振る。


「だめ……あの記憶は、開けてはいけない……。あの子を、もう傷つけたくない……」


ナツミの目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

背後の人影は、ナツミの涙と共に、まるで溶けていくかのように揺らめく。


「ナツミちゃん……」


ハルカは、彼女の心のBGMに深く同調しようとした。

ナツミの脳内は、まるで深い海の底に沈んだ宝箱のように、大切な記憶が封じ込められていた。それは、彼女が「忘れたい」と願った、しかし「忘れてはいけない」と心の奥底で叫んでいる記憶だ。


リョウが、静かにユウトに視線を送った。


「ユウト。その鍵を、扉に」


「え、でもナツミが……」


「それでも、だ。真実を受け入れなければ、この歪みは収まらない」


リョウの言葉に迷いはなかった。彼の心のBGMが、確固たる分析音を奏でる。


ユウトは、葛藤しながらも、鍵を「開かずの扉」の鍵穴に差し込んだ。カチリ、と重い音が響く。


扉が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。


扉の奥から溢れ出したのは、まばゆい光ではなかった。


そこには、古い子供部屋が広がっていた。

壁には色あせた落書きがあり、床には積み木や絵本が散らばっている。

そして、部屋の中央には、幼い少女の姿をした、透明な人影が、寂しげに座っていた。


その人影は、ナツミの背後に現れていた人影と、瓜二つだった。


「……アキ」


ナツミの声が、震えながらその名を呼んだ。


(つづく)

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