第13話 おわかれ

 僕はお父さんの話を最後まで聞くと、ボロボロと泣いていた。


 後悔からだろうか。哀れみからだろうか。

 それとも、失望への恐怖からだろうか。


「……私には、鈴夏がどう思っていたのかまではわからない。今君に話したのは全部、私が見たことと感じたことだから、あの子の見たことや感じたことはさらに酷いものだったと思う」


 鈴夏が何を見たのか、何を感じたのか。それは彼女しか知らないことで、僕が知ることはないのだろう。


 それでも、それを想像すると、涙が止まらなかった。


「……ありがとう。あの子のために泣いてくれて。そんな友達がいてくれて、わたしも少し救われたよ」

「ごめんなさい……! 僕は、もっと早く来なくちゃいけなかった……会いに来なくちゃいけなかった……本当に、本当にごめんなさい……!」


 もっと早く答えを出せていれば。もっと早く彼女のことをちゃんと期待できていれば。


 そうすれば、こんなことにはならなかったんだろうか。

 もう、そんなことわからない。


「謝ることはないよ。君は、あの子のことをちゃんと見ようとしてくれたんだろう? あの子のことを、知ろうとしてくれてたんだろう? だから、謝らなくていいんだ」

「でも! 僕は、鈴夏を守るって言ったのに……! 期待してもらったのに! 失望させた……!」

「それでもいいんだ。君が守るってあの子に言ってくれていたことが、私も、多分あの子も嬉しかったんだから」


 お父さんは、本当に優しい顔をして言ってくれた。それが僕には、ぽかぽかとした日の光みたいに感じられて、余計に涙が止まらなくなった。


「最後に、これも君には知っておいてほしい。実は、近々引っ越そうと思っているんだ。どこか遠くの……そうだな、沖縄にでもしようか。出来るだけ綺麗な場所で、あの子に暮らしてほしいんだ」

「え……」


 沖縄なんて遠いところへ行ってしまったら、僕は二度と鈴夏に会えなくなる。

 そんな予感がした。


 そうしたら、僕は彼女に返事も聞かせられないまま、一生彼女に失望されたままになってしまう。


「待って……待ってください! お願いします。僕に、もう一度チャンスをください!」


 そう思ったら、自然と口が動いた。


「それは……君があの子を、鈴夏を救ってくれるということかな?」


 お父さんは、真剣な顔で僕を見てきた。

 試されている。期待されている。肌でそう感じた。

 だから、僕も涙を拭いて、目を見てしっかり答えた。


「――――はい」


 その一言は、自分自身への期待。


 失望を怖がって、期待されることを恐れた僕には出せない答え。


 もう一度、彼女に期待されるために頑張ることを決めた、僕の決意。

 それを、はっきりと伝えた。


「……なら。必ず救ってほしい。あの子をもう一度、笑わせてやってほしい。英雄くん。わたしは、期待しているよ」


 そう言ったお父さんの顔は、鈴夏にそっくりな、あの満開の笑みだった。


 今日は七月八日。

 もう迷わない。もう怖がらない。『特別』になるって決めたから。



***



 翌日から、期待に応えるべく動きだした。


 鈴夏に笑ってもらうにはどうすればいいか、あれから一晩中考えた。


 そして、僕がやることは変わらないのだと気が付いた。

 あの絵に描かれていた景色を探そう。鈴夏が探し求めていた、あの景色を見せてやろう。

 そうすれば、もしかしたらもう一度、匂いを感じられるようになるかもしれない。


 根拠のない希望を信じて、めぼしい場所は全部見に行ってみた。


「そう簡単には見つからない……か」


 けれど、探せど探せど見つからない。


 早く見つけなきゃいけないという焦燥感が、日に日に大きくなっていった。

 だが、やることは他にもある。


 さらに翌日、光一たちから準備が整ったと連絡が来た。


 あっちの方はなんとかなったらしい。僕より難しいことを頼んだはずなのに、やっぱり二人は凄いやつらだと改めて実感した。


 ついに明日は決戦の日だ。



***



 プシューという音とともにバスの扉が閉まっていった。この道を踏むのも、これで二度目だ。少し歩けば、目的地である美術館にたどり着く。

 日曜日だというのに、ここは人が少ない。

 とはいえ、朝十時ならこんなものだろう。


「なぁ石田。お前なんで制服着てきたんだよ」

「いやぁ、こっちの方が勇気出るかなって思って」

「……! ――二人とも、雑談はそこまでにして。来たよ」


 時間は予定通り。

 この時間にここに来るやつは、一人しかいない。


 今、この場にいるのは、僕と光一とかなめ、そして、


「やぁやぁ君たちかな? 私のことを呼び出したのは」


 相変わらず気持ちの悪い、あの男の四人だけだ。


 僕が二人に頼んだのは、決戦の舞台を整えてもらうこと。

 この男を、この場所に呼び出すことだった。


 難しいことだとは思っていたが、二人ならやってくれるだろうと期待してお願いしておいたのだ。


「はじめまして、森田さん。今日はわざわざ足を運んでくださりありがとうございます」


 光一が深々と礼をして出迎えた。


「いいのいいの。本物の美術を教えてくれ、なんて言われたら、そりゃ来ないわけにはいかないよ! それを知りたいってことは、ブログを見てくれたんでしょ? そんな勉強熱心な子がいたのが嬉しくて、私、胸がときめいちゃった」


 その言葉の通り、今日のこの男はやけに上機嫌だし、気に食わないが、恰好もおしゃれで、インテリな感じを醸し出していた。


 あれだけネットで叩かれているというのに、なんでこいつはこんなに元気なんだ。


「それじゃ、早速美術館の中に入りましょ。本物と偽物の見分け方、しっかり伝授してあげるからね!」

「あぁいえ。その前に、少しお聞きしたいことがありまして」

「はい? なんでしょう? 話してごらんなさいな」


 バンっと背中をかなめが叩いてくれる。二人とも、ここまでありがとう。

 僕は心のなかで最大限感謝して、その男の前へ歩み出た。


「―――僕のこと。覚えてるか?」

「いいえまったく。どこかで面識が?」


 なんとなくそんな気がしていた。

 この男、嘘はついていない。

 驚きや憎しみ、罪悪感といったものの一切を感じさせない、上辺だけの申し訳なさを見せてきていたから、それは間違いない。


 それを目の当たりにして、一つ得心がいった。


 こいつがこんなにも元気な理由。

 それは、自分と、自分が『特別』だと思う人間以外を、有象無象のものと捉えているからだ。


 知る必要がない。思う必要がない。認める必要がない。

 そう考えているから、『特別』である自分は、それを気に掛ける必要がないのだと思っている。


「それで? あなたは私に何のお話があるので?」


 だから、僕が聞かなくてはいけない。


「……どうして、鈴夏の絵を勝手に使った」

「どうしてって……あぁわかった! あなた、鈴夏ちゃんのファンかなにかでしょ? だから、わたしにお礼を言いに来たのかな⁉ そうだわ。そうでしょ⁉」

「そんなわけねぇだろ。とっとと質問に答えろ」


 自分が自分じゃないみたいだ。どす黒いものが、僕の中から這い出ようとしてくる。


「……ファン、じゃないみたいね。まぁいいわ。答えましょう。理由は、あの絵が真の芸術だったからよ。真の芸術と偽物の芸術の違いはわかっていて?」

「知らない」

「……はぁ。仕方ないわ。教えてあげます。簡単に言えば、真の芸術というのは、人の意図が含まれないもののこと。偽物はその逆。本来、芸術っていうのはね、純粋に作りたいという思いだけで作られたもののことを言うのよ」


 それを聞いて、黒い何かを吐き出しそうになる。でも、まだだ。まだ出てくるな。


「世の中には、それをわかってない人が多すぎるのよ。わたしは、それを何とかしたい。そんなときに出会ったのが、鈴夏ちゃんの絵なの。これはもう、天啓だと思ったわ」

「鈴夏の絵を勝手に使うのがか」

「そう。鈴夏ちゃんの絵は、至高の芸術と言ってもいい。あの絵を見た人は、きっと何が本物の芸術かわかってくれる。だから私は、あの絵を使って多くの人に教えてあげなくちゃいけない。だって、私と鈴夏ちゃんは選ばれた人間なのだから!」


 あぁ。そうなのか。なら、きっと以前の僕なら、この人の言い分には言い返せない。

 黒いなにかも、出てこなかっただろう。


 だというのに、不思議なものだ。今、そいつが僕から出て来ようとしている。

 恐怖が、出て来る。


「……気持ちが悪い」

「はぁ? 今の言葉、もう一度言ってみなさい! 私が、なんだって⁉」

「気持ち悪いって言ったんだよ。お前のその考え方がさ」


 僕は、怖かった。この人の考え方が。以前の自分の考え方が。

 だってそれは、鈴夏を裏切るようなものだ。


「鈴夏は、自分を知ってほしくて絵を描いていたんだ。自分の見てる綺麗な世界を知ってもらうことを期待したから、それを絵にしていたんだ。だから、彼女の絵は、お前の言う偽物と同じなんだよ」

「はっ。そんなわけないでしょ。あなたに鈴夏ちゃんのなにがわかる?」

「わかるさ。だって僕は、鈴夏に期待されていたからね」


 ポケットの中にあるものを取り出す。やっぱり、制服を着てきて正解だった。

 四つ折りにしていたそれらを丁寧に開いて、この男に見せつけた。


「―――は? なにそれ」

「もらったんだ。鈴夏に。いつまでも、忘れないでほしいって期待を込めて」


 優しくて幸せな噴水の絵。

 デフォルメされたかわいいリスの絵。


 そして、彼女の大好きなハイビスカスの花の絵。


 鈴夏が自分と僕のために描いた、いつまでも覚えているための思い出の絵。

 それを見た男の顔は、明らかに動揺していた。


「……だからなによ。確かに、あなたが鈴夏ちゃんの絵をもらっていたのには驚かされたわ。ただ、それが何⁉ だったらなんだっていうんだよ⁉ オイ‼」


 今までのどこか紳士ぶった態度を一転させ、男が声を荒げて叫んでくる。


「……本当はもうわかってんだろ? この絵が、どういう意図で描かれたのかってことくらい。だって、お前はその違いがわかるんだもんな」

「……クソ! うるさいんだよ! 芸術が何かもわかってないガキが、私にごちゃごちゃ言ってきてんじゃねぇよ!」


 駄々をこねる子供みたいだ。いつまでも、自分の間違いを認められない。

 もしかしたら僕も、鈴夏や二人が居なかったらこんな風になっていたのだろうか。


「お前が初めて見た鈴夏の絵も、そういう絵だった。でも。なのにお前は! 鈴夏のことを知ろうともしないで、自分の理想を押し付けたんだ! それが気持ち悪いって言ったんだよ! わかったか!」

「黙れェ! そんなものは認めない! そんなものは芸術ではない! 至高の芸術にふさわしくない! この世界にあってはいけないんだよォォ!」


 男が僕めがけて、いや、鈴夏の絵めがけて走ってくる。恐怖で歪められて、鬼のような形相をしている。


「石田!」

「危ない!」


 かなめが僕に手を伸ばそうとし、光一が僕の前に立ちふさがろうとしてくれる。


 でも、僕は二人を振り切って、男の直線上に立つ。


 近づいてくる男の顔面を捉えて、しっかりと狙いを定めて。


「ま、あのときやるはずだったし、別にいいよね……!」


 その顔面めがけて飛び込むように、僕は男に思いっきり体当たりをした。


「ぐわっ!」


 男が細身だったこともあり、僕の力が多少勝り、押し倒されるように男は転んだ。


 僕は流れてきた汗を拭いて、その男を見下ろすようにして言った。


「鈴夏の絵は特別でもなんでもない。自分の世界を見てほしいと期待していた普通の女の子が描いた、よくある普通の絵なんだよ。……まぁ、僕にとっては特別だけどね」


 鈴夏のように、優しく教えたつもりだった。

 それが伝わってくれたら良かったが、地面の上で僕を殺す勢いで睨んできている男には、やっぱり伝わってないのだろうな。


「……じゃあ、あなただけが独占するつもり⁉ あの特別な絵を、他の人に知らせないでいいって言うの⁉」


 その質問は、少し難しい。


 鈴夏は他の人に知ってもらうために描いているのだから、それを僕だけが独占してしまったら、鈴夏の目的は叶わなくなってしまう。


 あぁ、でも、それでいいのか。


「鈴夏の絵を見るのは、鈴夏を知ってくれる人だけでいいんだ。彼女に期待してない人は、あの世界のことを知らないままでいいよ」


 少なくとも、僕はそう思った。


 だいたい、こいつが初めて見た鈴夏の絵は、僕と鈴夏のための絵だ。それを独占して何が悪い。むしろ他の人には知られたくない。


「……もう、なんなの……あなたは、なんなんだ……」


 よかった。今度の質問は簡単だ。

 それは、ずいぶん前に答えを出している。


「―――僕は、鈴夏だけの『特別』な、ごく普通の男子高校生だ」


 それを聞いて、男は気持ちがいいほど憎々しげに睨んできた。


 でも、先ほどまでの激昂した様子はない。

 僕との力の差を思い知ったからか、それとも別の理由か。ともかく、飛び起きて攻撃してくるようなことはしないだろう。


 だから僕は、立ち上がろうとする男に手を差し出した。


「そんなもの、いらないに決まってるでしょうが!」


 バシッと叩かれ、拒絶された。まぁ、こいつならそうすると思った。


 男は一人で立ち上がり、服の汚れを払って落とすと、僕たちに向き直る。


「……もういいわ! あなたたちの顔を見てると腹が立って仕方がない! 今すぐ失せなさい。この美術館にある芸術は、私一人で堪能します」


 そして、そう吐き捨てるように言って、美術館の中へ消えていった。

 ずんずんと力強く歩いていく様からは、どこか気持ちの良さを感じさせられる。


「……なんか、可哀そうな人だったね。あたしには、ずっと苦しんでるように見えた」


 かなめがそんなことを言った。


「擁護するわけじゃないけどよ。あいつ、昔通ってた美大で、教師と大喧嘩したらしい。なんか、『あなたが描いた絵からは情熱も感情も何も伝わってこない」って言われたことがあるって、ブログに書いてあったんだよ」


 光一がそんなことを言った。


 もしかしたら、あの人も僕や鈴夏と同じようなものだったのかもしれない。

 誰かに期待されたいと願い、『特別』に憧れた人だったのかもしれない。

 

 そんなことを少しだけ、考えてしまった。

 やめよう。そんなことを考えるのは。

 僕には知る必要のないことだ。


「……帰ろう。もう、十分だよ」



***



 僕たちの町に帰り、二人と別れた後、僕はそのまま景色探しをすることにした。


 まだ午後になったばかり。

 残った時間で少しでも探しておきたかった。


 一時間くらいしたころ、ぽつりぽつりと空から雨が降り始めた。

 やがて五分もすると、雨は土砂降りになってしまった。

 天気雨だ。


 僕は急いで屋根の下へ逃げ込み、雨宿りをすることにした。


「最近降ってなかったのにな」


 夏の雨はたまにしか降らないくせに、降って来るときには、まるで世界すべてを水浸しにするかのように降り注いでくる。


 そういえば、鈴夏はよく、僕の匂いは夏の雨の匂いだと言っていた。


 結局、あれはどういうことなんだろうか。

 まぁ本人もわからないかもしれないが。


 そうやって彼女のことを思い出していると、ポケットに入れていたスマホが軽快な音を出して、誰かから電話が来たことを知らせてくる。


 誰だろう。画面を見てみると、知らない番号だ。


 不審に思って少し出るのを躊躇ったが、無視するのも忍びない。とりあえず出てみることにした。


「はい。もしもし」

「あぁ。よかった。出てくれたか。英雄くん、私だ。鈴夏の父です。今、時間あるかな?」


 その声を聴いたとき、出ておいてよかったと心の底から思った。


「はい。もちろん大丈夫です。……あの、鈴夏に、なにかあったんですか?」

「いや。そういうわけではないんだが……少し、君に頼みたいことがあってね」

「なんでしょう?」

「実は、これから少し、私と妻が家を空けなくてはいけなくなってね。今のあの子を一人にはさせたくないから、わたしたちの代わりに、君に居ていてほしいんだ」


 電話越しにもわかるほどに申し訳なさの伝わる声で頼んできた。


「……そんな大事な役目、僕でいいんですか?」

「何を言うんだ。むしろこんなこと頼める人を、私たちは君以外に知らないよ」


 そう言われたとき、まるで心にじんわりと、雨が浸み込んでくるような心地がした。

 期待されたのが、嬉しかったのだと思う。


「……すぐに行きます」

「ありがとう。玄関は開けておくよ。では、あの子をよろしく頼むよ」


 プツッと電話が切られる。


 まだ、雨は止んでない。

 さすがにこの土砂降りの中、びしょ濡れになって人の家に行くわけにはいかないので、雨が弱くなってきたら行こう。


 だが、空を見てもちっとも止む気配がない。

 この雨はいつまで降るのだろう。それを調べるために、僕はスマホで天気予報を調べ始めた。


「げぇ……後一時間は雨だよ」


 さて、どうしたものかな。どこか近くで傘が買える店はあったっけ。

 そんなのんきなことを考えていたときだった。


 メールが来た。ショートメールだ。

 この電話番号を知っている人で、実際にメールを送って来るのなんて一人しかいない。


 急いでメールを開けた。


「―――……やばいか、これ」


 正直、開ける前は楽しみに思う気持ちがあった。見直してもらえたんじゃないかって、期待する気持ちが少しはあった。


 けれど、メールを開けた瞬間に、そんな悠長なこと思ってる場合ではないことがわかった。


 僕はスマホをポケットに突っ込み、土砂降りの雨の中を走り出した。



『バイバイ!』

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