間章 夏の雨
わたしを包んで
その匂いを感じるとき、わたしはいつもびしょ濡れになってしまう。
夏の雨はいつも急に降ってきて、大抵は傘を持ってないから、雨に当たっちゃう。
でも、わたしはそれが心地よくて、大好きだった。
初めにその匂いを感じたのは、小学生三年生のとき。つまり、わたしが一番辛かったとき。
学校の帰り道、わたしは独りで帰ることが多かった。当時のわたしはできるだけ目立つことを控えていたから、一緒に帰ってくれるような友達はできなかった。
人と一緒に帰るのなんて、避難訓練の集団下校のときくらい。
といっても、それだっていつもとたいして変わらないんだけどね。
とにかく、わたしはその日も一人で歩いていた。
そんな時だった。ぴちょん、と頭に水が落ちてきた。
見上げると、空は明るく晴れているようなのに、ドザーと雨がいきなり降ってきて、わたしは為す術もなくびしょ濡れになった。
普通なら、走って屋根があるところで雨宿りしたり、そのまま家まで逃げるだろう。
けど、わたしはおかしな子で、土砂降りの中、空を見上げて立ち尽くしていた。
だって、雨がわたしを見ててくれたから。
わたしをびしょびしょにして、わたしの全てを抱きしめるように包み込んでくれたようだったから。
服に浸み込んでいく雨水が、そのまま心の奥まで届いていくような気がした。
この日は、夏の雨がちょっとぬるめで、綺麗で、いい匂いがすることを知った日で、わたしの大好きな匂いが一つ増えた日。
そんな、懐かしくて優しい過去の話。
***
「―――おぇ……」
目が覚めると、また吐き気がこみ上げてくる。
この悪臭に苦しむ一日が始まる。
酷い匂いだ。口で呼吸していても感じてしまう。
そうだった。この匂いに鼻は関係ないんだっけ。
今はそれを信じられないほど恨めしく思う。
昔は、苦に思ったことなんてなかったんだけどな。
時刻は夜の三時。
カーテンの向こう側はまだ真っ暗で、普通は起きる時間じゃない。
けど、もう一度寝ることもできないだろうし、目が覚めた以上起きるしかない。
なんせ見る夢が全部悪夢だから、ここ数日はまともに寝られた試しがない。
もう起きる時間も寝る時間もめちゃくちゃだ。
暗い部屋の中、わたしはベッドから起き上がり、お父さんとお母さんを起こさないように、出来るだけ静かに部屋を出る。
水を飲みにキッチンに行くと、冷蔵庫の扉に何かが貼ってあるのが見えた。
それは、わたし宛てのメモだった。
お母さんの字で、今日の夕飯のメニューと『おなかが減ったら食べてください』というメッセージが書かれている。
冷蔵庫を開けてみると、そこには丁寧にラップで包んである料理が三品ほどあった。
メインは、わたしの好きなチーズたっぷりのグラタンだ。
すぐにレンジで温めて、食卓に並べた。
「……いただきます」
誰もいない静かなリビングで、感謝を込めて手を合わせる。
そして、グラタンを口に入れる。
「―――――………あぁ……そっか……」
ごめんなさい。
お母さん。本当にごめんなさい。
今の私には、臭くて、食べられません。
濃厚なチーズの匂いも、優しいミルクの香りも、全部腐ったたまごの匂いに塗りつぶされてしまいます。
ごめんなさい。せっかく作ってくれたのに。ごめんなさい。
わたしには、もう食べられません。
スプーンから手を放す。両手で目を抑えて、色々なものが溢れないように蓋をした。
***
落ち着いたら、グラタンと他の料理を全部冷蔵庫に戻した。
元通りラップで包んで、わたしが食べようとしたことがわからないようにしておいた。
メモを張り直そうとしたとき、どっちの方が悲しませないか悩んだけど、やっぱり貼っておくことにした。そっちの方が、まだマシだ。
その後は、すぐに部屋に戻ろうとした。
でも、洗面所で歯を磨いてるときに、どうせならお風呂も入りたくなった。
考えてみれば、もう数日お風呂に入っていない。
女子として最低だな。わたし。
さすがにこれ以上入らないと、この匂いがもっと臭くなりそうな気がしたから、お風呂に入ることにした。
お父さんたちの部屋とお風呂場は結構離れているから、多分静かにしていれば気が付かれない。シャワーだって、全開にしなきゃそんなにうるさくないはず。
きっと大丈夫だと信じて、お風呂場に入った。
久しぶりに浴びるシャワーは、温かくて、気持ちよかった。
こんなこと思ったことないのに、今は本当に気持ちがいい。
全身を洗い終わったら、温め直した湯船に浸かった。
わたしのために流さないでおいてくれたらしい。いつもは流しているから、多分そう。
そんなお湯の中は、シャワーよりもっと心地が良くて、つい全身でそれを感じたくなった。
だから、潜った。
頭の上まで、ちゃぷんと。
うそ。すごい。お湯の中なら、なにも感じないんだ。
そして、わたしは知った。
お湯の中なら、水の中なら、あの臭くてたまらない匂いから逃げ切れることを。
だから、この決断は自然なことだったと思う。
***
ついに、今日。チャンスが訪れた。
お父さんたちが二人とも家を留守にするという、最大のチャンスが。
二人が出て行ったのを確認すると、すぐに準備を始めた。
事前に書いておいた遺書をリビングのわかりやすいところに置き、お母さんが買ってきてくれた市販の睡眠薬を用意して、お風呂場に向かう。
今日も、お湯は残してある。ちょっとぬるいけど、わざわざ入れる必要がないのは、手早く終わらせたいわたしにとってとてもありがたかった。
ものの数分で、すべての準備が終わった。
後は、お湯の中で楽になるだけ。
心残りがないと言えば、うそになる。
だって、まだ気になる漫画の続きも読んでないし、沖縄にだってもう一回行ってみたかった。
それに、わたしはまだ、返事を聞いていない。
そういえば、彼とはあれっきり話していない。
あのときはもう感情がめちゃくちゃで、ずいぶんとひどいことを言ってしまった。
それを謝れていないことも、実は少し心残りかもしれない。
でも、あれは仕方なかったでしょ。
だってわたし、本当に悲しいんだもん。いつか助けに来てくれるって信じてたんだもん。
だから彼も悪い。悪いけど、あれが最期になるなら、あんなひどいこと言わなければよかった。
最期なんだから、笑って『バイバイ!』って言いたかったな。
……――まだ言えるじゃん。
わたしは一度部屋に戻ってスマホを取って来た。
久しぶりに電源をつけると、彼からのメールと着信履歴があって、やっぱりつけておけばよかったかなって少しだけ後悔した。
だから、最期くらいは後悔しないように。
『バイバイ!』
無事に送れたのを確認して、また電源を消した。
そして、錠剤を飲み込むと、わたしは服を着たままお湯の中に潜った。
―――あぁ。やっぱりここは、心地いい………
目を閉じると、夢のような世界が、広がった。
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