第8話 怪談の側

「と、言うと?」


 捻った頭は先輩をふり返らす事くらいは出来たようだ。まあ、ちょいと捻くれた考え方だったのかも知れないけれど。


「だって誰もいない部屋なんてどこにもないじゃないですか。その曲を耳にした人が、絶対そこにはいるんですから」


「なんだそれは」

 

 珍妙な顔をされる。


 先輩はくいっと小首を傾げ、口元に薄い笑みを含んで見上げてきた。さらりと肩に乗る髪、ぱちりとしたその視線に、思わず吸い込まれそうになる。


「つまりはですね。その部屋には訪問者がいただろうという事です」


「それはそうだろう。そうでないと怪談話は幕を開けない」


 何を言っているんだと。困った奴だと、眉をしかめられる。


 ぼくはといえば、ある猫に想いを馳せていた。猫の名はシュレディンガーの猫。思考実験に登場する、世界一有名な猫ちゃんだ。実験はこう締めくくられている。


 箱の中身は開けるまでどの状態でもありえる。誰にもわからないのだと。その真偽はどうあれ。


「これは解釈の違いなんですよ。その部屋はずっと毎日、訪問者が来ようが来まいがそんな事お構いなしに、曲が流れていたかもしれないじゃないですか」


「だとしたら?」


「怪談側になってみて下さいよ。その部屋は音楽が流れているのが当たり前だった。なのに突然やってきた訪問者が不気味だ、怪談だと騒ぎ立てる。まったく、迷惑極まりない」


 ふうと息をつき首を振る。


 そうしてから傾げる。おや? ぼくはいつの間にか怪談側として語っているような気が。仕掛ける側、いや、黒幕として。何か相通じるものでもあったのだろうか。


 先輩はなぜか怪談の味方をする後輩を、不思議そうに呆れて見つめてくる。


 そしてクスクスと笑いだした。


「変わった奴だな、君は」


 愉快そうに笑う先輩からはすっかり険がとれていた。そうやって笑えばどれほどの人が救われのかと思うほどの良い笑顔で。近寄りがたさは、もう感じ得なかった。


「君は、名はなんと言うんだ」


「ニ年の守屋です」


「そうか、守屋君。私はもう少し練習をしていくとしよう。良かったら君も聞いていくといい」


 ピアノの演奏が始まる。こうして誰もいなくはなくなった音楽室から旋律が流れだす。曲の名は月光。今度は少し、淋しげではなかったのかもしれない。


 響きわたる月光。


 なめらかに動く白くて長い指。弱々しいようでいて、所々に力強く。不思議な音色をしていた。これは確かに、夜中に聞こえてきたら怖いものがあるかもしれない。


 しかしよくもまあ、あんなに素早く左右別の動きができるものだなと感心する。ぼくは動きを目で追う事すらままならないというのに。


 どう逆立ちしようと到底無理な芸当だった。なにせ逆立ちもろくに出来ないのだからどうしようもない。


 先輩の演奏はきっと上級者のそれなのだろう。全国に勝ち上がる腕だ、大したもののだと思う。これまでに相当な練習を積んできているはず。


 ピアノと向きあう真剣な横顔を眺めている内に演奏は終わった。最後の音色が心地よく消えていき、ゆっくりと手が引かれていく。顔を持ちあげ、瞳がこちらを向いた。


 何か言った方がいいのかなと頭を悩ませ、出てきた言葉は、

「あの……。格好よかったです」

 パチパチと拍手を贈る。


 もっと気の利いたコメントを返したい所だったけど、どうにもまぬけな感想になってしまった。しかたない、音楽はぼくの手に余るのだ。


 先輩はふふっと、小さく微笑した。


 多分、ぼくの感想が嬉しかったわけじゃないだろうから、何を笑ったのかは訊かない方が身のためだった。


 どうせ訊くのなら、もっと別の事をだ。


「先輩は、いつも音楽室で練習を?」


「そうだ。もうコンクールまで、幾ばくも日がなくてね。学校に無理を言ってここを使わせてもらっている」


 先生も公認なんだなと得心する。


 まあ、そりゃそうだ。教室の鍵を借りないといけないのだから。とすると、先生が一緒だったりもするのだろうか。今は席を外しているだけなのか、それとも戻った後か。


「先生とふたりで練習、ですか?」


 ぼくならきっと息が詰まる。


「いや、私も無理を言った身だ。さすがにそこまでは頼めない。練習はいつもひとりでやっているよ。録画して聞き直したり、動きの確認をしたりと。まあ、色々よ」


 ピアノは上手く弾けるというだけではダメらしい。所作と言うか、恐らくそういう物が欠かせないのだろう。演奏する先輩の姿は、良し悪しのわからないぼくでさえ美しいと感じたもの。


 あれはひとりで磨きあげた練習の成果なのか。そしてなるほど、納得だ。録画して見直すのならひとりでも練習は可能だった。


「もっとも、今日は珍しいお客さんが覗きに来たけどな」


 そう言うと先輩は悪戯な笑みを浮かべ、ちらりと見上げてくる。実際はただの闖入者であるぼくとしては、お客さんと呼ばれただけまだマシだったのかもしれない。


 ついこの間は変質者と疑われたばかりなのに、気付けば今度は闖入者だというのだから。引く手数多というのも困った物である。我ながら節操のない物だった。


 さて、お次は何になってしまうのやらと不安に思う。次こそは黒幕でありますようにと願っていると、先輩はぼくの目を覗き込んできた。


 ただじっと目を逸らさないままにいる。ぼくはその瞳にすっかりと魅入られてしまい、妙にドギマギとしてくる。何か声をかけねばと気ばかりが急いて、口を開きかけたら視線を外された。


 壁の時計に目をやって、先輩は小さく息をつき、やおらにすっきりと立ち上がった。


「時間だ、どうやらここまでのようだな。もう直に午後の授業がはじまる。君も早く教室に戻るといい」


 鍵盤のフタをバタンと閉じて、さっさと帰り支度を始めてしまった。それに倣ってほくも、開きかけだった口をパクンと閉じる。そして横に引き結んだ。


 その様子をみて先輩は、

「怪談がみたくなったなら、またおいで」

 にやりと不敵に笑う。


 結構、根に持つタイプらしい。これからは気を付ける事にしよう。


 先輩とはこの場で別れ、姿が見えなくなる所まで行ってからパチンと頬を叩いた。何だかフワフワとした気持ちになっている。夢見心地だった。ダメだね。調子が狂うや。


 でも色々とわかってきた。この怪談話の噂、どうやらお化けは出てこないと見た。


 なんてね、と肩で笑う。


 それはあたり前の話で、問題はそこじゃない。問題なのはお化けが出てこないにも関わらず、そんな噂が流れている事の方にあった。


 いったい誰が、何の目的で?

 

 フワフワとしている場合じゃなかった。もっとしっかり集中しないと。教室の戻り道すがら考えを巡らせる。この怪談話の出処は思ったよりも近くにありそうだぞと。


 しかもそれは、先輩の近くにいるひとに関係がある。なぜならぼくが聞いた噂話よりも、先輩の知る方が細部に明るかったからだ。


 ほんのりと魅惑的な、謎の香りが漂ってきたような気がした。


 もう少しだ。あと少し待つがいい、鬼柳美保。教室の帰り道、廊下の窓から小さな彼女の姿が見えた。何も知らず、呑気に授業を受けている。


 ん、授業を、受けて?


 こりゃまずい、もう授業が始まっていた。遅刻じゃないか、早く戻らないと──。


 月光ソナタ。


 どんな曲かを調べてみたら、ベートーベンがこの曲を作った時のエピソードがすぐに出てきた。


 ある夜。ベートーベンが出歩いているとどこからともなくピアノの音が聞こえてきたそうだ。音に導かれるまま行くと闇夜の中には盲目の少女がひとり、ピアノを演奏している場面に出くわしたらしい。


 月明かりに照らされ、幻想的に、少女はただ楽しそうにピアノを弾いていた。その姿を目にしたベートーベンは心を打たれ、深く感銘を受けたという。


 そして光を見る事の適わなかった少女にも、月の光を感じてもらおうとして作ったとのがこの曲、月光ソナタ。という事になっているそうだ。なるほど、美談だ。


 とても素敵なお話だけど、これは作り話だったと後に判明してしまったらしい。ぼくはこのお話嫌いじゃないけどな。


 でも、気になる箇所がひとつ。


 作中のベートーベンは、少女に月の光を与えようと作曲した。なぜ彼はそうしようと思ったのだろう。感銘を受けて作曲した、で終わってもおかしくないお話だ。


 そしてどうしてだろう。


 盲目の少女の姿が、ぼくには中原先輩の姿と被って見えている。何かぼくにも、先輩に与えられるものはないものか。


 いやいや、何を考えているんだか。


 ぼくはベートーベンじゃないじゃないかと、そんな事はわかっているのについ考えてしまう。なんだかずっと妙な感じだった。先輩の事が気になって仕方ないとでも言うつもりか?


 激励会で見かけたあの瞬間から、ぼくはおかしくなっている。何かが引っかかっている気がしてならなかった。


 なんだろう、もやもやとする。


 だから音楽室に足繁く通うのは避けられない話で、それは翌日すぐの事だった。


 放課後、音楽室に向かって廊下を進む。またおいでと言ってもらえたので、足取りは昨日よりも軽やかだった。また廊下まで美しい調べが流れているかなと思ったけれど、今日は静まり返っていた。


 おや、と思いながら音楽室のドアに手をかけると、何の抵抗もなしにスッと開く。中を覗いてみたけれど、先輩の姿はどこにも見当たらなかった。なんだ、毎日練習しているわけではなかったのか。


 残念、無駄足だった。


 そこそこ長い距離を歩いてきたのになと思い、せっかくだからと中に入っていく。誰もいない音楽室は寒々しく、肖像画だけがこちらを見ている空間はどこか異質で。


 怪談めく為の場所だった。


 何となしにピアノの前に立ち、鍵盤の蓋を開けてみる。白と黒の鍵盤がずらりと並ぶ。思ったよりも数が多く、ドがどれかもぼくには分からない。目に付いた鍵盤を軽く叩いてみる。


 ポーン。


 今どの音が鳴ったかは分からなかったけど、なんだか楽しく思える。考えてみれば、鍵盤に触るのは小学生のピアニカ以来なかった事だった。


 ポーン、ポーン、ポーン。


 続けざまに鍵盤を叩く。もちろん先輩の様に音楽にはなっていないけれど、音を楽しむのが本来の音楽であるはずなのだ。だったらこれも十分に音楽をしているよ。


 と、自分を慰めていると、

「随分と稚拙な怪談のようだな」

 突然に声がした。

 

 声のもとを辿ると、いつの間にか先輩がひょっこりとドアから顔を覗かせている。どうやら恥ずかしい所を見られていたらしい。


 そそくさと照れ混じりに手を隠し、まるで何事もなかったように話しかける。先輩も深くは追求してこなかった。目元は少し笑っていたけれど。


「今から練習ですか?」 


「そのつもりでいたのだが」

 

 眉根を下げる。


「いや、今日はやめておこうと思ってね。鍵盤遊びをする音が聞こえてきたから、少し覗いてみただけよ」


 追求はしなくともイジリはするようだ。今度は目だけじゃなく口元も笑っている。ならばと、素知らぬ顔で応じた。


「何かあったんですか?」

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