第9話 こんな噂を

 先輩は僅かに口を開けたけれど声にはならず。すぐに閉じ、ブンブンと頭を振った。


「何、大したことではない。今日は演奏が録画出来そうにないのでね」


「それはまた、どうして」


 頬に手を添え、はたと考える素振りをみせる。憂うその姿すら絵になっているのはさすがとしか言い様がない。


「紛失──、いや。やはり家に忘れてきたのだと思う。君もせっかく演奏を聞きに来てくれたのだろうに、すまないな」


 いえいえと首を振り、ふぅむと頷いた。


 これまで一人で練習をしてきた弊害なのだろう。録画機器の有無が練習の要と化していた。それを忘れたなら、とてもじゃないが練習にはなりそうもない。ぼくに音楽の心得でもあれば話は別だったけど、望むべくもなかった。


「守屋君。私はもう、今日は家に帰ろうと思うのだが。君はどうする」


 はて、それは何を意味するのかな。もしやこれは、一緒に帰ろうと誘われているのでは? ぼくが有頂天になるのを見計らったように先輩は言う。


「君はまだ、遊んでいくのか?」


 その手には、プラプラと揺れる音楽室のカギがさげられていた。


 ああ、なんだ。ドキドキして損をした。戸締まりを気にしていただけの話かと肩を落とした。ちょっぴりと悩んでから、もう少し遊んでいきますと返事を返す。


 すっかりと呆れる先輩から、

「戸締まりは頼んだよ」

 とカギを預かった。


 去って行く先輩を笑顔で見送ってから、はて、なんだろうねと首を傾げる。


 さっきの先輩の話には嘘が混じっていた。ぼくの鍵盤遊びが聞こえたから寄ったと言っていたけれど、どうしてそんな嘘を付いたのか。


 それじゃあ先輩はなぜ、音楽室前にいたのかという話になる。教室からはそこそこの距離があるはずだった。練習しないで帰宅するのなら、こちらの棟に寄る必要は最初からないのだから。


 そして極めつけはこれだとカギを揺らす。


 音楽室のドアはなぜ開いていたのかだ。授業でも音楽室は使うのだから、先輩がカギを返していなかったのではない。そして音楽室を最後に出るのは大概いつも先生だった。閉め忘れでもないだろう。


 なのにカギは開いていた。


 だから先輩は、一度この音楽室を訪れているのだ。カギを開けて中へと入り、練習をしようとして録画機器がない事に気が付いた。恐らくは教室にでも忘れたと思い、探しに行ったんじゃないだろうか。


 先輩はそれを、持ってきていると思っていた。そのつもりで来ているのだ、間違いない。だけどそれは、本当に家に忘れてきただけなのだろうか。


 或いは──。


 ピアノを弾きもせず、鍵盤の前へと座る。あごに手をやって、少し考えを纏めてみる。


 音楽室の怪談の噂。激励会からずっと感じている妙な違和感。中原先輩から聞いた話。ベートーベンのエピソードへの既視感。先輩の滲ませた嘘。練習が出来なかった理由。


 ふむふむ。うんうん。なるほどねとこねくり回し。そういう事だろうなと結論に至る。今ここで何がどうなっているのかが、ようやく見えてきた。


 確認のために電話を一本かけてみよう。あらかじめ調べておいたのだ。小林くんには感謝しかない。どうやって調べたかは、聞かないほうがよさそうだったけれど。


 プルルと電話をかけてみて確信した。そしてこれは何たる好都合だよとほほ笑む。運よく偶然も重なり、ぼくの味方をしていた。おかげ様でひとつ手間が省けるというものだった。


 よし、これで謎は完成した。


 お待たせたしちゃったかな、鬼柳美保。さあ、ぼくと遊ぶとしようじゃないか。まずは手始めに、噂を広げる所から始めるとしよう。


 うん、そうだったそうだった。始めるのなら、きっとこの言葉しかなかった。それは様式美に則って、美しくいこうじゃないか。ほら、何度も目にしてきたであろう、あの言葉だよ。


「こんな噂を知ってるかい?」


 ヒソヒソと、実しやかに噂は伝播する。その広まり方は以下の計算式で求める事が可能だったりする。


 即ちそれは、速さ×時間。


 速さはおしゃべりな人数の自乗かな? この学校には少しおしゃべりな人が多いのかもしれない。噂はあっという間に広まっていき、ぐるりと巡ってくる。もう周りのクラスまでやってきているようだった。


 始まりが、ここだとは知らずにね。


 ぼくは机に突っ伏して、にやける口もとを隠す為に寝たふりをしていた。そしてこっそりと聞き耳を立て、専念する。


「なあ、誰もいない音楽室からピアノの演奏が聞こえてくるんだってよ」


「なんだよそれ、前にも聞いたぞ」


 そう、元から流れていたあの噂を、そのままの形で流用させてもらったのだ。それは追い出すよりも簡単だったし、なにより手っ取り早かった。伝わる早さにも一枚噛んでいる事だろう。


「まあ、最後まで聞けよ。演奏しているのは、コンクール出場を前に無念の死を遂げたピアニストらしい。命をかけて練習して、志半ばで亡くなったんだとよ」


「へえ、それで?」


「まだ死んだ事実に気付いてないんだよ。終わる事のない練習をしてるって話だ。もうそれは呪いの曲になっちまってるんだろうな。その演奏を四回聞いたら──」


「聞いたら?」


 間をあけて、潜めた声がした。


「死んじゃうんだってよ」


「なんだよそれ」

 

 わははと笑い声がする。


 この手の噂のあるある話だった。演奏を聞いたという人物は、まず名乗り出てきやしない。知り合いの知り合いから聞いたという、身元不明者の体験談で終わる事が多かった。


 だけど、今回は終わらせやしない。


「いやいや、マジだって。ちゃんと聞いた奴がいるらしいんだってば」


「まじ? 誰だよそんなホラ話する奴は」


「それがさ」


 短く言葉を切って、やにわに静かになる。チクチクと背に視線を感じるようだった。


「それがさ。井上先生と、……ニ年の守屋だって言うんだよ」


「守屋って、そこの守屋か?」


 どうも、ご紹介に預かりました。そこの守屋ですとはさすがに言いやしなかったけれど。まあ、それはぼくの事で違いなかった。


 目撃者として参加するかどうかは正直迷いもした。ちょっとは不本意でもある。でもそうでもしなきゃ、鬼柳美保の推理を拝めそうになかったのだから仕方ない。必要経費だった。


 出処のあやふやな噂話に、今回はしっかりと目撃者を登場させる事にした。ただの噂だろうと、流されでもしたらかなわない。


 そして目撃者は二人もいる。


 勘違いだと無視する事は出来なかった。しかも目撃者の一人は先生ときたものだから、噂の信憑性はグイッと、グイッと上がったに違いなかった。


 背中に視線を集めながらぼくは感心しきりだった。おしゃべりな友人というのは本当に心強いものだなあと。うまい具合に噂を広めてくれている。


 小林くんが一晩でやってくれました、だ。


 でもやっぱりと言うべきか。ある程度はそうなるかもと予見していた。噂は順調に広まりつつあり、隣のクラスにも当然その噂話は届いてるはずだった。なのに肝心要の鬼柳美保に目立った動きは見られない。


 彼女はいつも通りに何度もトイレに付き添い、そこにいたかと思えばワープするかのように消えているだけで過ごしている。


 まあいい。こうなっても構わないようにと次の手はもう打ってあった。その優しい、断りきれない性格じゃあ、きみは謎と向き合うしかないはずなのだ。


 高笑いしたくなるのをぐっと堪え、くつくつと不敵な笑みを浮かべるに留まった。


「なあ。守屋、なんか揺れてね?」


「いま、呪われてる最中なんじゃね?」

 

 背後からそんな声がしていた。


 翌朝。ゆるゆると登校を済ませて自分の席につくと、ほどなくしてぼくの前に立つ影があった。


 やや前のめりに、

「ちょっと聞きたい事があるんだけど」

 そう話すのは、鬼柳美保だった。


 小柄な彼女は、椅子に座るぼくと目線が丁度同じ高さだ。丸みを帯びたショートボブがふわりと揺れるほど勢いよく、目の前へと詰めよってきた。


 そして大きな瞳で捉えてくる。あの時見せた物と同じ、力強い光を帯びさせて。


「やあ、きみは」


 ようやく現れた鬼柳美保と爽やかな挨拶を交わそうと試みる。


「あの時の、パンツの君じゃないか」


 ──遅かったね。


 と思うのも束の間、蹴飛ばされていた。まったく、久々の再開だというのに随分とつれないものである。相も変わらず野蛮なものだった。普段はそうでもないくせに。不思議なものだよ。


「そうだった、鬼柳ちゃんだったね」


 苦笑いしたら、ぷりぷりとした面持ちで睨んでくる。だけどそんな事をして、じゃれて遊んでいる暇はないのだ。何といったって、今回の謎は制限時間が設けられているのだから。


 なるべく急がせないとだ。


 緩む口元に、彼女は不信感を募らせているようだった。前のめりに小さくなるその背後に、もう一人の少女の姿があった。


 鬼柳ちゃんよりは背があり、髪を一つに結んだ少女はぼくの視線に気付いたのだろうか。オドオドとしながらも、控えめにぺこりと頭を下げた。


 こちらも会釈で返した。


 するとまるでその少女を視線から守るように、鬼柳ちゃんはぼくらの間に立ちはだかった。ぼくをいったいなんだと思っているのだろう。


「あのね、聞いたよ。守屋くん。音楽室の怪談を実際に見たんでしょ?  その時の事を詳しく教えて欲しいの」


 うんうんと、満足気に頷きそうになる。やる気になってくれているようで何よりだった。計画通りだとニヤつきたくなる。そこにいる鬼柳ちゃんの友達を、ニ回目の演奏の目撃者に仕立てあげたのはどうやら正解だったらしい。


 何度も連れていかれたトイレで相談でも受けたのか、やっぱり断りきれなかったんだな。彼女は理由があれば動けるタイプなのかもしれない。


「うん、いいよ。話そうか」


 設定と真実。ヒントに嘘。見せる物と見せれない物。ちぐはぐになったりしないよう気を付けながら、説明をしていくとしよう。


 それじゃあ、お聞き願おうかなと。徐ろに胸に手を当て、慇懃な礼をしたつもりで話を始めよう。開演ブザーが鳴らないのが、残念でならなかったけれど。


「ええとね、ぼくはあの日。授業が終ってから帰る前に音楽室に向かっていたんだよ。目的はそう、ピアノ演奏さ。中原先輩は知ってるかい」


「中原紗奈さんの事よね。そういえば、朝礼で言ってたっけ。コンクールへの出場が決まったのよね」


 ふぅん。面白い娘だなと頷く。

 

 まさか、ちゃんと朝礼に集中している生徒が存在するとは、夢にも思わなかった。人の名前がフルネームで、パッと出てくるのも単純に凄いと思える。


 もしかして同学年だけじゃなく、全校生の名前を覚えているのだろうか。ぼくなんかは、そこにいる鬼柳ちゃんの友達の名前すら知らないというのに。


 ちらりと視線をやったら、その子と目があったのでニコリと笑む。すると再び鬼柳ちゃんが覆い隠してしまった。


 ふぅむ、徹底しているなと苦く笑い、息をついてから気を取り直す。


「そう、その中原先輩だよ。コンクールの日取りが近いらしくてね。音楽室を借りてピアノの練習をしているんだ」


「それを邪魔しに行ったの?」

 

 驚いた顔をされる。


「とんでもない、覗きに行ったんだよ」


 それを邪魔と呼ぶかどうかは、預かり知る所ではないけれど。ちょっぴりと鋭くなった視線を気にせずに続ける。


「でもその日は運が悪く、録画機器が手元にないらしくってね。残念ながらピアノの練習は中止になってしまった訳さ」


「ん?」

 

 小さく首を傾げた。

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