終章 江戸の青き夜明け
蔵前屋の別邸で、襖絵の完成を祝う宴が催された。招かれたのは、江戸の裕福な商人たち、文化人、そして中には幕府の役人までいた。彼らは皆、伊吹新太という若き絵師が描いたという、前代未聞の襖絵を一目見ようと集まってきたのだ。
広間に通された人々は、一様に息を飲んだ。
目の前に広がるのは、これまでのどんな絵師の作品とも違う、鮮烈で、生命力に満ち溢れた四季の草花。まるで、襖の向こうに本物の庭園が広がっているかのような錯覚。そして、その色彩の豊かさ、特に深く、どこまでも吸い込まれそうな青の美しさに、誰もが心を奪われた。
「なんと…なんと見事な…」
「この青は、一体どうやって…?」
「まるで、草花が風にそよいでいるようだ…」
称賛の声が、あちこちから囁きのように漏れ始める。それまで新太の絵を「異端」と批判していた狩野派の絵師の一人も、その場に招かれていたが、彼は襖絵の前に立ち尽くしたまま、顔面蒼白で一言も発することができなかった。その圧倒的な画力と、独創性の前に、もはやケチをつけることすら不可能だったのだ。
もちろん、全ての人間が手放しで称賛したわけではない。一部の保守的な人々は、「あまりに写実的すぎる」「日本の絵画の伝統を無視している」と眉をひそめた。しかし、そうした批判の声は、大多数の熱狂的な称賛の前にかき消されていった。
伊吹新太という絵師の名は、蔵前屋の仕事以降、その特異な画才を知る人々の間で囁かれるようになった。彼の元には、これまでにない絵を求める、物好きな大店の主人や、風流を解する隠居した武士などからの依頼が、人づてに寄せられるようになる。新太は、名誉や富には淡泊なまま、ただひたすらに自身の求める美を画布に写し取ろうと、一枚一枚の絵に魂を込めた。
彼が生み出した「新太ブルー」は、その製法を生涯誰にも明かすことはなかったという。その神秘的な青は、彼が残した数少ない作品の中に息づき、その色彩に魅せられた者たちが密かに模倣を試みた。ゆえに、その影響は直接的な系譜としてではなく、ある種の伝説のように、後の絵師たちの心に残り、新たな色彩への渇望を刺激したのかもしれない。
父・弥七は、息子の晴れ姿を見ることなく、襖絵が完成する少し前に、静かに息を引き取った。新太は、父の墓前に完成した襖絵の写しを供え、静かに手を合わせた。
(父さん…俺は、俺の信じる絵を描き続けるよ。この江戸の世で、誰も見たことのない美しさを、この手で生み出し続ける…)
前世で、古美術修復家として、過去の美を守り伝えることに人生を捧げた橘直哉。今世で、伊吹新太として、新たな美を創造する喜びに目覚めた彼。その魂は、二つの人生の記憶を抱きしめながら、どこまでも広がる江戸の青空の下、新たな芸術の夜明けを見据えていた。
彼の絵筆から生み出される色彩は、これからも江戸の画壇を、そして人々の心を、鮮やかに染め上げていくことだろう。それはまるで、夜明け前の空を染め上げる、一筋の青い炎のように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます