第三章 江戸の画壇に吹く風


「新太ブルー」の誕生は、伊吹新太の画業に大きな転機をもたらした。徳兵衛は、その青の美しさと、新太の才能に改めて惚れ込み、より一層の支援を約束した。新太は、弥七の看病をしつつも、徳兵衛の屋敷の一室を借り、本格的な創作活動に没頭できるようになった。


 彼の描く絵は、江戸の人々にとって衝撃的だった。伝統的な画題――例えば花鳥図や山水図であっても、そこに用いられる色彩、特にあの深く妖しい青は、観る者の心を捉えて離さない。そして、何よりも、対象を克明に写し取ろうとする写実的な描写と、それによって生まれる立体感や奥行きは、これまでの日本の絵画には見られなかったものだった。



「伊吹新太という、妙な絵を描く若い衆がいるらしい」



 噂は、好事家たちの間で瞬く間に広まった。徳兵衛の屋敷には、新太の絵を一目見ようと、裕福な商人や、中には武家の人間までが訪れるようになった。



「これは…まるで生きているようだ」「この青は、どうやって出すのだ?」「このような絵は、狩野派でも土佐派でもない…一体何者なのだ?」



 称賛の声が上がる一方で、当然ながら、既存の画壇からの風当たりも強くなった。特に、幕府の御用絵師として絶大な権力を持つ狩野派の絵師たちからは、新太の絵は「異端」「まがい物」として、激しい批判に晒された。



「あのようなケレン味ばかりの絵は、正統な画法ではない」「西洋かぶれの、根無し草の絵だ」「子供の浅知恵に過ぎぬ」



 年嵩の絵師たちは、公然と新太をこき下ろし、若い弟子たちには「あのような絵に影響されるな」と厳命した。中には、新太の画材に嫌がらせをしたり、徳兵衛に圧力をかけようとしたりする者まで現れた。



 新太は苦しんだ。自分の信じる美を追求しているだけなのに、なぜこれほどまでに拒絶されなければならないのか。前世の記憶を持つ彼は、芸術の歴史が常に革新と伝統の対立の中で発展してきたことを知っていた。しかし、実際にその渦中に身を置くことの厳しさを、今更ながらに痛感していた。



「父さん…俺の絵は、間違っているのでしょうか…」



 弱音を吐く新太に、病床の弥七は、静かに首を横に振った。



「新太…お前の絵が正しいか間違っているかなど、わしには分からん。だがな、お前の絵には、魂が籠もっている。それは、誰にも否定できんことだ。…自分の信じる道を、行け」



 弥七の言葉は、新太の心に深く染み渡った。そうだ、自分には描きたい世界がある。この手で生み出したい美がある。他人の評価など、恐れるに足りない。



 その頃、徳兵衛のもとに、ある大きな依頼が舞い込んだ。江戸でも有数の豪商として知られる、両替商の蔵前屋くらまえやが、新築した別邸の襖絵を新太に描かせたい、というのだ。



「新太、これはお前にとって、大きな好機だ。だが、同時に試練でもある。蔵前屋の旦那は、目利きで知られるお方だ。並大抵の絵では満足されんだろう。…受けるか?」



 徳兵衛の問いに、新太は迷いなく頷いた。「やらせてください。俺の全てを、この襖絵に叩き込みます」


 それは、伊吹新太の名を江戸中に轟かせることになる、運命の仕事の始まりだった。






 

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