第二章 “秘色の青”を求めて
丹波屋徳兵衛という、思いがけない理解者を得た新太の生活は、少しだけ明るい兆しを見せ始めた。徳兵衛は、弥七の薬代を都合してくれるばかりか、新太に画材を買い与え、「とにかくお前の描きたいものを描け」と言ってくれたのだ。
(この人の期待に応えたい…そして、俺自身の絵を追求したい)
新太の創作意欲は、堰を切ったように溢れ出した。しかし、彼が描けば描くほど、ある一つの壁に突き当たることになる。それは、「色」の問題だった。
特に「青」。
江戸初期に手に入る青の顔料といえば、高価な輸入品である藍銅鉱アズライトや花紺青スマルト、あるいは国内で産出される岩群青いわぐんじょうなどが主だった。しかし、それらは直哉の知る、例えばフェルメールが愛用したラピスラズリの鮮烈な青や、ゴッホの絵に見られるコバルトブルーの深み、そして何よりも、彼が前世で再現を夢見たプルシアンブルーのような、複雑でニュアンスに富んだ青とは程遠かった。
(この時代に、あの青を生み出せないだろうか…)
プルシアンブルー。その化学式はおぼろげながらも記憶の片隅に残っている。動物の血液や骨炭を原料とし、アルカリと鉄塩を反応させて作る、あの深く美しい青。もしそれをこの手で再現できたなら…。
無謀な挑戦であることは分かっていた。材料の入手も、精製方法も、この時代の知識と技術では絶望的だ。しかし、新太の中の修復家としての探究心と、絵師としての渇望が、彼を突き動かした。
徳兵衛に頼み込み、鍛冶屋の隅を借りて、新太の秘密の実験が始まった。屠殺場から分けてもらった獣の血、骨を焼いて作った炭、薬種問屋である徳兵衛の店からこっそり持ち出した得体の知れない薬品の数々。それらを、古びた土鍋で煮たり、焼いたり、混ぜ合わせたり…。
失敗の連続だった。悪臭を放つだけで、目的の青には程遠い、どす黒い液体や、奇妙な色の沈殿物ができるばかり。周囲からは気味悪がられ、弥七からも「新太、お前は何をしようとしているんだ…?」と心配された。
(やはり無理なのか…前世の知識など、所詮は絵空事だったのか…)
諦めかけたある日、偶然だった。鉄鍋に、動物の血を煮詰めたものと、薪の灰(炭酸カリウムを多く含む)、そしてどこかの鉱山から出たという
最初は、ただの黒い泥のようなものだった。しかし、それを水で洗い、濾過し、乾燥させてみると…そこには、これまで見たことのない、深く、そしてわずかに緑みを帯びた、妖しいまでに美しい青色の粉末が現れたのだ。
「こ…これは…!」
新太は息を飲んだ。それは、完全なプルシアンブルーではなかったかもしれない。だが、紛れもなく、この時代の日本には存在しない、新しい「青」だった。まるで、秘色ひそくの磁器を思わせるような、神秘的な色合い。
新太は、その青を使って、小さな絵を描いた。夜空に浮かぶ三日月と、その下に佇む一匹の白狐。背景の夜空を、新開発の青で塗り込めた。
徳兵衛は、その絵を見た瞬間、言葉を失った。
「新太…この青は…一体…?」
「俺が…作りました。まだ、誰にも見せたことのない青です」
徳兵衛は、ゴクリと喉を鳴らした。その目は、興奮と畏敬の念で見開かれている。「お前は…とんでもねえものを作り出しちまったかもしれねえぞ…」
新太は、この青を「新太ブルー」と心の中で名付けた。それは、江戸の絵画史に、新たな一滴を投じることになる、運命の青だった。
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