第一章 貧乏長屋の小さな絵師



 伊吹新太としての生活は、想像を絶する貧しさとの戦いだった。父、弥七の咳は日増しに酷くなり、満足な薬を買う銭もない。日々の糧を得るのがやっとで、絵を描くための画材など、夢のまた夢だった。



「新太、済まないな…お前にまで、こんな苦労を…」



 布団の上で、弥七は細い声で詫びた。その痩せこけた頬を見るたびに、新太の胸は締め付けられるようだった。十三歳の身体には、あまりにも重い現実。しかし、彼の中には、三十五歳の修復家、橘直哉の知識と経験、そして何よりも絵画への尽きせぬ情熱が息づいていた。



(諦めるものか…)



 前世では、他人の作品を修復し、保存することが仕事だった。だが今世では、自らの手で、ゼロから何かを生み出すことができるかもしれない。この江戸の世で、まだ誰も見たことのない絵を。



 新太は、弥七が僅かに残していた和紙の切れ端や、燃え残りの炭の欠片を拾い集め、時間を見つけては密かに絵を描き始めた。それは、江戸の子供が描くような戯画ではなかった。脳裏に焼き付いている、ミケランジェロの人体デッサン、レンブラントの光と影、そして琳派の鮮やかな色彩構成。それらが、拙いながらも、力強い線となって和紙の上に現れる。



 ある日、弥七は新太が隠していたそれらの素描を見つけた。驚愕に目を見張った。そこには、十三歳の少年が描いたとは思えぬ、陰影に富んだ人物像や、まるで生きているかのような動物の姿があったからだ。



「新太…お前、これを…どこで習った?」



 弥七の声は震えていた。新太は言葉に詰まった。まさか「未来で覚えた」などと言えるはずもない。



「…夢で…見たんです。綺麗な絵をたくさん…」



 苦し紛れの言い訳だったが、弥七はそれ以上何も聞かなかった。ただ、息子の異様な才能に、畏れにも似た感情を抱いたようだった。そして、それと同時に、微かな希望の光も。



「お前の絵は…何か、違う。わしには分からんが…何か、とてつもないものを感じる…」



 弥七は、自分の残り少ない命を、息子の才能に託そうとしているのかもしれない。その日から、弥七は体調の良い時を見計らって、新太に自分が知る限りの絵の基本を教え始めた。狩野派の画法、運筆の基本、墨の濃淡の出し方。それは、前世の知識を持つ新太にとっては基礎的なことだったが、この時代の絵師の息遣いを直接感じる貴重な体験だった。



 しかし、現実は厳しい。弥七の薬代は嵩み、長屋の家賃の支払いも滞りがちになった。新太は、自分の絵を売って銭を得ようと決意する。しかし、子供の描いた、しかも異様な雰囲気を持つ絵など、誰が見向きもしてくれるだろうか。



 版元や絵草子屋を訪ねても、門前払いされるのが関の山だった。「なんだこの気味の悪い絵は!子供は子供らしく、もっと可愛らしいものを描け!」と罵倒されることも一度や二度ではなかった。



(やはり、駄目なのか…この時代の人間には、俺の絵は理解できないのか…)



 打ちひしがれて長屋に戻る途中、新太は橋のたもとで、一人の男が露店で小物を売っているのを見かけた。その男は、歳の頃五十格好、身なりは質素だが、どこか飄々とした雰囲気を漂わせている。並べられている品は、古びた根付や煙管、得体の知れない薬草など、雑多なものばかりだった。



 その男が、ふと新太の持つ風呂敷包みに目を留めた。中には、今日も売れ残った新太の絵が数枚入っている。



「坊主、見ねえ顔だな。何ぞ、面白いもんでも持ってるのか?」



 男は、人を食ったような笑みを浮かべて声をかけてきた。新太は、どうせまた馬鹿にされるだけだろうと思いつつも、藁にもすがる思いで、風呂敷の中から一枚の絵を取り出した。それは、道端に咲いていた朝顔を、西洋画的な写実技法で描いたものだった。葉脈の一本一本、朝露の雫まで、執拗なまでに細密に描写されている。



 男は、その絵を手に取ると、眉間に深い皺を寄せ、じっと見入った。長い沈黙。新太は、息を詰めて男の反応を待った。



 やがて、男は顔を上げると、にやりと笑った。



「こいつぁ…面白い。こんな絵は、初めて見たぜ」



 男は、丹波屋徳兵衛たんばやとくべえと名乗った。薬種問屋を営む傍ら、珍しいものや新しいものに目がなく、自らも時折こうして露店を出すのだという。



「おめえさん、名は?」



「伊吹新太、と申します…」



「新太か。いい名だ。どうだ、新太。わしのために、もっと面白い絵を描いてみねえか?もしわしが気に入ったら、相応の礼はするぜ」



 それは、地獄に仏、とはまさにこのことだった。新太の目に、涙が滲んだ。


 

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