遅くなる

佐原マカ

遅くなる

 うつむいて待っていたら、突然、目の前に壁のように立ちはだかる背中があった。ハワイから来たのかと思うほど、海に飛び込むような格好で、上半身の七割は露出している。その肌をまじまじと見つめて、「赤いんだ」と思った。そして次に、「白くないんだ」と、最初にそう思わなかった自分に気づいた。


 それは、「白人」という言葉に含まれる「白」という文字の読み方が、「しろ」から「はく」に変わるだけで、私にとっての「白い」という認識が一気に消えてしまうものだったからか、あるいは、「白人」という言葉が、私にとってそれ以上分解できないほど、完全なひと塊として捉えられていたのからかもしれない。少なくとも、今思いつくかぎりでは、その二つのどちらかだ。——そう考えないと、自分が差別的でないと証明できない気がした。


 そんな理屈をこねているあいだにも、時間は確かに進んでいた。けれど、頭が動いているときの感覚としての時間のスピードと、現実のそれとは明確に違うということも、また確かだった。携帯の電源ボタンを押し、自分に向かって懐中電灯をつけたかのようになり、狼狽えたあと、ようやく視界が戻って見えた「46」という数字に、私は絶望した。


 瞬時に頭より先に手が動いて、スマホゲームの画面を開く。マリオみたいなゲームだ。スタートした。死んだ。スタートした。死んだ。まるで、やり直すたびに自分が壊れていくみたいだ。だんだん早くなって、画面の中のキャラも、私の思考も、ぐしゃぐしゃになっていって、イライラして、何に怒っているのかもわからなくなって、やめる。電源ボタンを押す。まだ、48分。


 この世は、思ったより遅いらしい。というか最近、私のほうが早くなっている気がする。もしかしたら、みんなはちゃんと歩いてるのに、私だけが走っているのかもしれない。それとも、誰もが走っていて、私だけが歩いているのか。


 ライブハウスは、まだアーティストが出てきていないのに、すでに窮屈で暗い。ましてや、なぜか外国人が多いため、さらに狭く感じる。暗がりの中、みんながスマホに吸い込まれている。だから、顔だけがやけに明るい。それでも、やっぱりちゃんと暗いから、私が今どんな顔をしているか、彼らには見えない。光った顔が点在し、その隙間をミラーボールの光が、小さな子どもみたいに、壁や床や人を踏みつけながら走りまわっている。


 私は腕を組んで、スマホを見ているふりをしていた。誰の顔も見たくないのに、誰かの目を探している。


 ずっとこのままでいいのか。ずっとこのままがいいのか。ずっと変わらないのか。ずっと変われないのか。——そんな感情が紐のように頭を縛り、ぐるぐると振り回す。余計に分からなくなる。それは、今この瞬間にそっくりだとも思う。


 この中の何人が、このライブを本当に楽しみにして来たのだろう。ライブチケットを手に入れてから今日まで、相当な日数が経っているのに、その「楽しみ」という気持ちは、ずっと続くものなのだろうか。


 本当に楽しみなら、それはどこまで本心なんだろう。それは一種のステータスのように楽しいのか、それとも、動画を撮って投稿するのが楽しいのか。


 私はもう、どんなに凄い歌声を聴いたとしても、帰りの電車の中で「楽しかった」と結論づけることは、とうてい想像できないのだと——見る前から、すでにそう納得している。


 それは、このアーティストが好きじゃないからというわけではない。ただ、私は「好き」を継続することができなかったり、「好き」にも波があったりする。


 今、私の身体から感じ取れるあらゆる感覚、つまり見えるもの、聞こえるもの、触れて感じるものすべてが、瞬間ごとに「好き」「嫌い」と絶えず値を更新し続けていて——総じて私は、あらゆるものを「好きになる」ということが難しい人間なのだと思う。

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遅くなる 佐原マカ @maka90402

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