第7章 ― さらば、自由な方程式
3月10日、午前9時7分。
静まり返った凛太郎の部屋に、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。G♭(ソのフラット)。FとGのちょうど中間にぶら下がるような、奇妙に不安定な音だった。
画面に表示された件名は【ART-RESIDENCE HELSINKI 採択】。送信者は、御影風花。
心臓が、一瞬だけ止まった気がした。
震える指でメールを開く。そこには、いつもと変わらない軽やかな文体で、信じられない内容が綴られていた。
〈3ヵ月間、バルト海の夜景と環境音をテーマに、ヘルシンキで制作してきます〉
スクロールしていくと、追伸があった。
P.S. 「線を少しだけ伸ばしてくるね :)」
嬉しさと、胸の奥で警報のように鳴り響く寂しさが、互いに打ち消し合って、凛太郎の中からすべての音を奪っていった。ただ、通知音のG♭だけが、耳の奥でいつまでも微分音のように揺れていた。平行線から、ほんの少しだけ外れてしまった音。
3月25日、午後3時20分。港星シーガルターミナル。
ガラス張りの広大なロビーは、春の強い光と、潮の匂いで満たされていた。
風花は、預けるには大きすぎるキャリーケースの隣に、いつものフィルムカメラ、Canon Demiを提げて立っていた。フェスで使っていた赤いスカーフは、今日は彼女の黒髪に編み込まれ、風に揺れている。
チェックインを済ませ、二人は屋外のデッキに出た。春だというのに風はまだ冷たく、ターミナルに掲げられた二本の旗が、平行なまま激しくはためいている。
「見て」
凛太郎が、ふと海上を指差した。沖合を、試運転中だというシーガル5号と6号が、寸分違わぬ速度で並走している。その後ろには、くっきりと二本の白い航跡が伸びていた。
「……並走、できるかもね」
風花が、誰に言うでもなく呟いた。
午後4時2分。搭乗開始時刻まで、あと15分。
太陽が西に傾き、海風が一層冷たくなった。凛太郎は、着てきたパーカーのポケットに両手を突っ込む。
「……壊さずに済むかなって」
風花が、ぽつりと言った。
「確率に賭けるの、癖になっちゃった」
その横顔は、諦めと、ほんの少しの期待が混じり合った、見たことのない表情をしていた。
凛太郎は、衝動的に彼女を抱きしめようとした。腕を伸ばし、あと数センチでその肩に触れる、というところで、彼は動きを止めた。8センチの空白。フェスの夜、彼女が守ろうとした距離。
「行っておいで」
声が、ちゃんと出ていただろうか。
「帰ってきたら、もっと遠くまで飛ぶ新曲を、聴かせるから」
(抱きしめない優しさが、いちばん私を燃やす。大丈夫、まだ平行線のまま――)
風花は一度だけ凛太郎を振り返ると、タラップを上がっていった。髪に結ばれたスカーフが、風を受けて赤い螺旋を描く。
やがて、双胴の高速船が静かに岸壁を離れた。二つのエンジンが、二本の白い航跡を海面に刻みつける。それは30秒ほど続いただろうか、沖に出るにつれて次第に混じり合い、やがて一本の線となって、水平線へと吸い込まれていった。
凛太郎は、デッキの手すりを、ポケットに入れていたフェンダーのピックで弾いた。カーン、という硬質なFの単音が、金属を震わせて響く。
夕陽が、一本になった航跡をオレンジ色に染め上げ、光の帯を作っていた。
あのフェスの夜、+5まで燃え上がった感情が、今は−4の地点まで落ち込んでいる。けれど、不思議と絶望はなかった。その下で、見えない炎だけが、まだ熱く揺れているのを、彼は確かに感じていた。
船尾のデッキで、風花がこちらを見ている。夕陽を背にした凛太郎のシルエットが、彼女の目には滲んで見えた。
燃えてる、まだ。
声にならない呟きが、潮風に溶けていく。
白い航跡が夜の紺に溶けるころ、凛太郎の指には単音Fの余震だけが残っていた。交わらない二本の線は遠い海で一本に見えたが――その下で、見えない炎だけがなお揺れていた。
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