第6話 ― フェスティバル=Function

 午後5時40分。大学祭〈海風フェス〉のメインステージ。


 西の空が燃えるようなオレンジ色に染まり、芝生席の向こうにある海面を照らし出している。風速7メートル。ステージの袖に立てられた旗が、バタバタと激しく音を立てていた。


「凛太郎、ギターのライン、もう一回だけもらっていい?」


 PAからの声に、凛太郎は頷いてFのコードを軽く鳴らす。今日のサウンドチェックは、いつもよりずっと入念だった。彼は持参したサンプラーのパッドに、昨日録ったばかりの潮騒と、貨物線が立てるFのハム音をアサインする。ただの環境音ではない。これは、この街と、彼女と出会ってから生まれた、自分だけの音景だ。


 足元のモニター横に、セットリストを貼り付ける。最後の曲名――《Parallel Lines -F-》――その文字を、凛太郎は指でそっと撫でた。


 その様子を、風花は客席の最も後ろに設置された映像ブースから、望遠レンズを通して見ていた。ファインダーの中の凛太郎は、いつもより少しだけ大人びて見える。セットリストに書かれた「F」の文字が、レンズ越しにでもはっきりと読めた。その瞬間、彼女の胸が、理由もなくざわつき、握りしめたズームリングのピントが、ほんのわずかに揺れた。


 (私がかけた作用が、彼を、音に変えたんだ……)


 Function、f(x)。入力された変数が、ある関数を通して、全く新しい値へと変換される。彼女は内心で、その数式を反芻していた。


 午後6時5分。日没と同時に、ステージライトが一斉に点灯した。ドラムがタイトな8ビートを刻み、ベースがうねるような低音を重ねる。シンセサイザーのきらびやかな音色が、夕闇を切り裂いた。そして――。


 凛太郎のイントロが始まる。


 まず、潮騒とレールのハム音が、会場全体を包み込んだ。8小節。それは、聴衆を日常から引き剥がし、港星という街の心象風景へと誘うための呪文。ざわついていた空気が、まるで水面に落ちたインクのように静寂へと染まっていく。観客たちの誰もが息をのみ、ステージに視線を集中させた。


 そして、Fコードの、分散和音。一本一本の弦が、祈りのように響く。


 Aメロに入ると、ステージ後方のムービングライトが動き出し、凛太郎の頭上に水平な二本の光のラインを描き出した。その光の下で、彼は歌う。


 ――Two shadows never meet / but burn in the same beat(二つの影は交わらない/けれど同じ鼓動で燃えている)


 サビが来た瞬間、世界が爆発した。


 凛太郎が踏み込んだFメジャーのコードに、深いリバーブがかかる。照明が客席の頭上を薙ぎ払い、どこまでも伸びる長い直線の光を描いた。潮風が、PAから放たれるベースの低周波を運び、会場全体の空気を震わせる。背後のスクリーンには、音圧と時間に呼応する二本の直線グラフが、激しく波打ちながら伸びていた。


 風花は、映像ブースの暗がりで、唇を噛み締めていた。音が、光が、風が、彼女の身体を容赦なく貫いていく。忘れかけていた、すべてを焼き尽くすような恋の熱が、胸の奥で再び燃え上がっていた。涙で、ファインダーの景色が滲んでいく。


 曲の終わり。キックドラムと、サンプリングされた貨物線の通過音が、完璧なユニゾンで鳴り響き、そして、唐突に音が途絶えた。

0.7秒の、完全な静寂。


 そのあと、嵐のような拍手が、芝生広場のすべてを揺るがした。


 バックステージに駆け込むと、凛太郎はタオルに顔を埋め、荒い息を繰り返していた。全身が汗で濡れている。そこに、風花が走り寄ってきた。その瞳は潤み、これ以上ないほど真剣な光を宿していた。


「一瞬だけ……交わったね」


 彼女の両手が、凛太郎のTシャツを強く握りしめる。指先から伝わる熱が、まるで火傷のように熱い。


 凛太郎が、その身体を抱き寄せようとした、その瞬間。


 風花は彼の肩を強く掴み、一歩だけ後ずさった。


「……だから、怖い」

  

 その声は、歓喜と恐怖がないまぜになって、微かに震えていた。


 (この熱は、永続させたらきっと壊れる。好きだからこそ、交点は、この刹那だけでいい)


 凛太郎は、伸ばしかけた腕をゆっくりと下ろした。そして、二人分の吐息が聞こえる、20センチの距離を保ったまま、微笑んだ。


「ありがとう。次は、もっと遠くまで届く音にするから」


 それは、この関数f(x)の答えを、水平線の向こう側まで飛ばしてみせるという、彼の宣言だった。


 風花は、親指で涙を乱暴に拭うと、小さな声で呟いた。


「平行線のままでも……届くんだね」


 彼女はカメラのレンズキャップを外すと、凛太郎の背中越しに、拍手を送る観客と、燃えるような夕景をファインダーに収めた。それは、これからも彼の隣を、同じ線の上を走り続けるという、彼女自身の意志表示だった。


 ステージの背後、海と空の境界線で、太陽が最後の光を放ち、グリーンフラッシュと呼ばれる緑色の閃光が一瞬だけ瞬いた。


 凛太郎の心象グラフの線が、−2の地点から、+5の頂点へと、一気に駆け上がった。


 潮風が、鳴り止まない拍手を力強く巻き上げていた。二人の間には、相変わらず一本の空白があったが、その空白こそが、音をどこまでも遠くへ跳ばす、見えない弦になっている。風花はファインダー越しに、燃える平行線の行方を、ただ、追い続けていた。

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